ハンブルネスのひとりごと

ノルウェー在住のシステムズ・カウンセラーのブログです

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その2.カルモイのディアコーン時代(後)

こんばんは、マイユニです。前回ブログより早くも2週間。この間にもコロナ状況は世界的に悪化していますね。日本には後期高齢者の母が居て、かなり心配しているのですが、幸い週に何度かTV電話で会話できるので、本当に文明の利器に感謝です。日本でもお盆の帰省が難しい方が沢山いて、お気持ちお察しします。私もいつ日本に里帰りできるのかな…。

さて、前回のブログでは2001年に西ノルウェーのカルモイという島でお仕事をいただき、学生ビザから就労ビザへの更新までの経緯を綴りました。今回は、実際の仕事や生活について。こちらでお世話になった2006年暮れまでのお話しです。

 

2001年当時のカルモイの教会

私がお仕事をいただいたのは、ノルウェー語では「Den norske kirke」と言いますが、当時は国が運営していたことから、民間運営の教会と区別するため「ノルウェー国教会」と呼んでいました。職員はすべて国家公務員(牧師)または公機関(Kirkelig fellesråd) の職員という位置づけです。組織的にはなかなか複雑になっていて、Kirkelig fellesrådが私の雇用者でしたが、人事的な業務にとどまり、実際の仕事内容などは教会の役員会が決定権を持っていました。簡単に言うと上司が二組居る感じです。

そして、私の勤めていた教会区でさらに気を使わなければならなかったのが、二つの教会の存在。地理的にはそれほど大きくない範囲ですが、公用ノルウェー*1から文化から伝統まで全く異なります。一つは私の住んでいた町にあり、もう一つは西に約10キロいったところにありました。この二つ目の教会は、規模も小さく、どちらかというと「弟分」のような教会ですが、やはりいつも弟と扱われることのジレンマがあったようです。カルモイ全体では全部で5-6の教会区があったと思います。今はカルモイは一つの自治体ですが、昔は教会区と同じくらい複数の自治体に分かれており、南カルモイと北カルモイでは異なるダイアレクト(方言)が話されているそうです。私などには違いを聞きとれるはずもなく…でしたが。とにかく、自分の町や村に大変誇りを持っている方々でした。それはそれでポジティブなことだと思いますが、そういう文化背景に限ってやはり外から来た人が溶け込むのはかなり大変かもしれません。

ちなみに、誰が教会員なのかというと、国教会はルーテル派というプロテスタントの教派で、幼児洗礼があるため、幼児洗礼を受けた人が教会台帳に登録されます。引っ越しをすると、今度は新しい住所が所属している国教会に自動的に登録される仕組みです。なお、国教会から脱退したい場合は(オンラインで)可能です。登録することのメリットは教会における冠婚葬祭が無料ということでしょうか。葬儀なども、葬儀やさんには料金をはらうものの、牧師・オルガニストや教会使用に対しては無料です。

 

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教会報のページより。「按手式」というディアコーン就任式にて。

 

ディアコーンの仕事

先述の通り、役員会で決められた内容がそのまま業務に反映されます。ただ、新しく職務内容を作る、というよりは大体の内容は前任者、Oさんのされていた仕事を引きついだ形になりました。

独自の文化や伝統が色濃い二つの教会ですが、特に大きい方の教会については、初代ディアコーンだった方の影響をかなり受けていました。その方は私が来る10年以上前に引退されたとのことですが、いろいろな業務がその当時のまま引き継がれていました。たとえば、二つの教会では交互に日曜礼拝があったのですが、大きな教会の方は聖書朗読や幼児洗礼のアシストは私の役目になっており、もう一人の同僚は小さい方の教会で同じ役割をしていました。最終的にはこの伝統にも終止符が打たれ、私も小さい教会の方で礼拝のお仕事をしたのですが…。カルモイの他の教会ではこういったことは教会員の方の奉仕(ボランティア)によって行われているのが主流だったので、不思議な感じがしました。(今はどうなっているか、ちょっとわからないのですが)

その他 Oさんより引き継いだ仕事は、お年寄りの家庭訪問、お母さんと赤ちゃんの午前中の集まり、10歳―15歳の子たちの金曜日のクラブなど。どの働きも私一人ではもちろんできないので、ボランティアの方々にお手伝いいただいていました。そして、ボランティアさんたちのケアも私の仕事です。具体的には奉仕に関係のある、彼らの興味のある内容で勉強会を開いたり、自宅に食事に招待したり。数人の方々とは親しくなり、今でもコンタクトがあります。私の代になってから始まった働きもありました。いわゆるグリーフワークといって、身近な方を亡くされたご家族のケアのグループや堅信礼を受ける中学校2年生の子たちの「ディアコニア・グループ」の仕事です。

ディアコーンという職種は各教会区に一人いるかいないかという感じですので、なかなか孤独な仕事です。幸い、隣の教会区や他の町のディアコーンさんたちと お互いに励ましあうネットワークもでき、共同でのプロジェクトにもかかわっていました。

 

いろいろなチャレンジ

「100人いたら、100の意見がある」と言われていたのですが、教会という場所はいろいろな意見を持った方々が集まっています。ある方は役員会の方、ある方はあまりアクティブには関わってない方。でも、皆さんそれぞれに自分と教会とのつながりや思い入れがあるので、そんな様々な意見や期待に応えられずに翻弄されることもありました。

初めに一緒に働かせていただいた牧師(私の在任中、牧師が数人代わりました。)は退職まじかの初老の男性だったのですが、どうも私のアクセント交じりの東ノルウェーの発音が気に入らなかったらしく、聖書朗読があるため、マンツーマンで数回特訓させられました。(あまり期待に応えた発音はできなかったので、途中で中止になりましたが。)当時はそれでも一生懸命期待にお応えしたいと思い、さほど気にはならなかったのですが、今考えると、ちょっと無理な注文でしたね。それに、私がノルウェー人だったら同じことをしたかしら、とも思います。

教会で働く、ということは、実は教会の皆さんに仕えるということも 徐々にわかってきましたが、最初はやはり学校で習ったセオリーや、自分でいいと思うことにこだわっていたと思います。その点、自分の役割や立ち位置をよくわかってなかったな、と反省です。典型的な例を挙げると、ボランティアで訪問していた難民キャンプ。せっかく住人の皆さんやキャンプの職員の方々とコンタクトができたのに、教会役員会は私のキャンプとの関わりにかなり難色を見せていました。プライベートでも関わってほしくないような雰囲気です。(プライベートに関しては彼らは決定権はありません。)私としては、孤独で辛い環境にいる方々を少しでも慰めるような働きをお手伝いしたかったのですが、この関わりも徐々に減って、後にこのキャンプは閉鎖となりました。

 

感謝なことの数々

オスロで学校を出たばかりでノルウェーにも6年住んでいただけの外国人の私を暖かく迎えてくれたカルモイの方々に今でも感謝の気持ちでいっぱいです。最初は本当に使えないディアコーンだったに違いありません。私にとってはこの経験で昔よりかなり柔軟な人間になることができたと思います。中でも、一緒にディアコニアの働きに加わってくださった教会員の方々に多くのことを教わりました。

また、カルモイという小都市で暮らせたことも 豊かな経験となりました。多種多様なオスロやその他の大都市と比べると良くも悪くも人と人との関わり合いが密で、人情味あふれた土地だと思います。

それから、少数ですが良き友人にも恵まれました。私の上に住んでいた同じ年のGさん。彼女とはディアコーンという肩書にとらわれず、いろいろなことをオープンに話すことができ、彼女の出身のハウゲスンにも毎週のように遊びに行っては彼女のお母さんや友達とご一緒させていただいていました。うちの母が遊びに来た時なども彼女のお母さん宅で会食などもさせてもらったり、私がハウゲスンで教習所に通っていた時もお母さん宅へ立ち寄らせてもらったり、今でも良い友好関係を継続しています。Gさんは私がここを離れると決めた時も、寂しいと言いながらもあと押ししてくれました。

 

新たなチャレンジに向けて…次のステップ

数年経ったころには、仕事にも慣れ、教会の皆さん方とも親しくなり、居心地はとても良かったのです。ところが、自分の中でだんだんと課題が生まれてきました。その一つは、自分のプロとしての成長。多少のチャレンジはあったものの、皆さんから感謝されてばかりで、職業的なチャレンジがなくなってきた、と感じ始めていました。これでは成長していかない、と思ったのです。そんなこんなで、一度 普通のソーシャルワーカーの仕事をして、思いっきりクライアントさんから批判されたり 足りないところを把握できる環境に自分を置きたいと思ったのです。もう一つの課題は孤独な生活からの脱出です。月に2週末 礼拝での仕事があり、クリスマスやイースターも休暇がなく、うちに居なければいけません。友人もGさん以外はあまりいなかったので、本当に身をもてあまして、一人で「ぽつねん」と過ごすことも多くありました。もっと大きな都市なら、独り身でもそういった休暇の時期に居場所を見つけられるのではないか…と。

そんなわけで、永住許可を得た2004年秋以降、転職活動を始めたのです。時には面接で、遠方に自腹を切って行ったり(オスロにも飛行機で数回面接に行っていました。)。ソーシャルカレッジを出てから、かなり特殊と見られるディアコーンの経験しかなかったので、転職もかなり困難でした。そして、労働市場にも疎かったため、チャンスを逃したことも多々あったと思います。ただ、くじけそうになっても 求人募集に応募し続け、面接にも気持ちを切り替えて出向いていました。そして、2006年の夏、オスロから70キロほど離れた市(ハーデランド地方にある)のソーシャルオフィスでお仕事がいただけました。話を聞くと、当初は一つだけの求人だったのですが、もう一人採用する予算があったため、(こういうことってかなりあります。)選考時にナンバーツーだった私にもオファーが来たのです。新しい仕事の契約は2007年の1月2日からでした。両方の教会の皆さんに見送られ、ちょっと後ろ髪を引かれる思いでお世話になったカルモイを去りました。

さて、結果的には東ノルウェーに戻ることになったのですが、まったく未知の土地での新しい出発でした。この時、35歳。唯一、生活が安定していたことが救いです。

先にも書きましたが、実は友人Gさん、お母さんやボランティアでヘルプしていただいた方々などともSNSを通じてコンタクトがあり、時間を見つけて主人とカルモイをこれまでも数回訪ねています。私の中では、カルモイは日本の次に大切な場所となっています。スペースの関係で書けなかったエピソードなどは またいつかこの場所でご紹介できるかも知れませんね。

 

さて、この25年を振り返るシリーズも 8月に入りそろそろ終盤になってきました。2007年から今年まで、何回でカバーできるかわかりませんが、頑張ります。

長文、お読みいただきありがとうございました!

*1:ボークモールとニーノシュク、bokmål & nynorsk