ハンブルネスのひとりごと

ノルウェー在住のシステミックカウンセラーのブログです

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その5.2010-2020年 ダイジェスト

こんばんは、マイユニです。皆さまお変わりありませんか?

今日の日本のニュースを見る限り、まだ心配は残りますが なんとかコロナ状況も上向きになってきているようですね。しかし、ここから私たち海外在住者が自宅検疫なしで入国できる日がいつ来るのか…。

そして、ノルウェーでも14時に首相らの記者会見があり、実は状況は悪くなっているとのこと。このまま収束方向に行かないと、またカフェなどが閉鎖したりする可能性があると…。このニュースを聞いて実はがっくり来ている私でしたが、気を取り直してブログに取り組んでいます。

さて、今年はノルウェーに来て25周年記念ということで、いろいろな出来事をブログで振り返ってきましたが、今回でとりあえずの最終回となります。どちらかというと、やはり初めの15年が一番ドラマチックだったな、と書いてみてしみじみ思う限りです。一方、2010年からはというと…もちろん様々な変化があった年月でしたが、ずっとオスロオスロ近郊に居るので基盤ができた感がありますね。今日はこの10年をテーマ別に一気に振り返ってみることにしました。

 

ネットデイティング卒業へ…

2009年の暮れにコンタクトがあったKさんですが、年が明けた2010年2月に初めてお会いました。初めの印象は、とにかく優しくていい人。彼はシャイでいわゆる「もじもじ」タイプだったので、ちょっとフラストレーションを感じたりしましたが、お茶したり、食事したり(いわゆるデートですね)していく中で、やっぱりお付き合いしてみようとなり、お付き合いしてみるとやっぱりかなり癒し系のいい人でした。私の新居を見に来てくれた母や母の友人にも すっかり気に入られ、その年の暮れには一緒に日本へ行くことになったのです。

それからほどなく結婚の話も進んで行き、なんと2011年夏には長年のネットデイタ―を卒業して、めでたく結婚に至ったのでした。この時のことを振り返ると、やっぱり不思議です…。話が進む時にはこんなに楽に進むものだ、としみじみ思います。以前短い期間お付き合いして結婚につながらなかった二人と比べると、やはり彼は結婚の準備ができていて、「グッド・ハズバンド」の要素が多々ある人。そして何より、お互いに無理せず いろいろなことに合意することができるほど価値観がかなり似ていた、というのも要因だと思われます。タイプとかルックスとかは、これも人ぞれぞれなのですが、ある知人の方のアドバイス、「いわゆる普通のルックスでも、彼にどこかきらりと光って好きな部分があったら、しめたものよ」というのも思いだしていました。まあ、私も普通のルックスなわけで、等身大の相手とはこのことですかね。

結婚とは、日本でいう「ゴールイン」とは逆に新たなに出発だと思っています。私もこの全く他人のKさん、しかも生まれも育ちも母国語も違う人と一緒に人生を共にしてきました。この結婚生活については来年ちょうど10周年を迎えることもあり、その機会にもうちょっと詳しく書いていきたいと思います。

 

複数回のお引っ越し

初めて購入した自分のフラットは2010年3月に引き渡し。やっぱり初めての不動産購入では、チェックが甘かったことで後々トラブルがありました。例えば、不動産やさんから聞いていた「共同駐車場」は、実は24時間以上は停められないと判明。不動産屋さんに確認せど、こういった事実関係を確かめるのは実は買う側の責任ということもあり、仕方なく地下駐車スペースを買い足すことになりました。

それから、この小さな一人暮らし者用のフラットは若い人たちが多く住む関係で、ノルウェー人にありがちな「おうちパーティー」が毎週末にあちらこちらで行われており、私の真下の20代の住人も典型的なパーティー男子*1でした。苦情を言ってもぜんぜん無視され、金・土は夜中の2時・3時までそのガンガン音楽に付き合わされる始末。こうなると、警察に電話を入れるしかなく、(来てくれる時と来てくれない時が在りますが…。) 何十回かけたかわかりません。ご近所さんは自分では選べないので、本当に運が悪いとしか言いようがなかったです。

先述の通り、そうこうするうち結婚することになり、このフラットは1年半ほどで売ってしまったのです。この後も引っ越しは2回続きました。まず、私のフラットを売ってから、Kさんの住んでいた家(コテージですが)に仮住まいとして3か月住み、その間に今の住まいを購入してまた引っ越しです。(この今の住まいも実は欠陥だらけの物件でしたが…。ここでは場所の関係で省略です…。) この時、ノルウェーに住んで16年くらいでしたが、この間にいろいろな事情で引っ越しした回数は15,6回。引っ越しのプロのようになっていましたが、やっぱり住んでいる期間が長くなればなるほど、物も増えるし、大変になっていきますよね。今住んでいる所は年をとってメンテが難しくなるまでは住めると思うのですが…。

 

ソーシャル・オフィス…その後

オスロ市、ガムレ・オスロ区のソーシャルオフィスの契約職員として2009年5月に働き始め、そのまま契約は伸び、最終的には1年半後にやっと正規職員のポストをゲットしました。その間に、ソーシャル・オフィスはNAV*2合併して職員150人、当時の来館クライアントさんは日に300,400人というノルウェーいちを争うほどのマンモスNAVと化しました。

人の移動も激しかったのですが、新規クライアントさん受付の課は「Publikumsmottak」(プブリクムス・モッタ―ク、PM)と改名し、合併に伴い外から来た課長も加わりました。ところが、この課長が私たちのもともとのやり方・働きを無視する傾向があり、しかもソーシャルワークを全く理解していなかったことで、複数の同僚が抗議。3,4年後にはほとんどの同僚が他のNAVオフィスに転職してしまうという事態になりました。残された私もストレスで燃え尽き症候群手前の状態となり、数か月休職。この病気休職がもとで、他の部署に移転願いを出し、同じNAVオフィスの長期利用者さんの課に2014年から3年近くお世話になりました。このチームではベテランのソーシャルワーカーがリーダーだったり、同僚も仕事のできる人が多かったことから いろいろなことを学ばせてもらえました。この課での受け持ちはざっと100人ほど。本当に一日があっという間に過ぎてしまうという毎日でした。ただこの頃になると自分をケアする働き方もだいぶ学んでいたので、仕事がたくさん残っていてもオース時代のように夜まで働くということはありませんでした。

ノルウェーは通常、年金から病気休職手当、失業手当に至るまで 自分のこれまでの収入により換算されることもあり、就労していない人は年金なども最低限というシステムになっています。NAVはこれらのお手当を出す機関でもありますので、おのずと「就労第一」主義になっています。逆に言うと、就労すること以外に価値が認められない感じです。そんなこんなで、生活保護受給者は常に就労につながる支援を強制的に受けなければなりません。

まだカルモイにいる2005年に1年間だけファミリーセラピーの基礎の学科を取ったのですが、そこで学んだ「システミック・アプローチ」は本当に「目からうろこ」でもっと勉強したい科目でした。ただ、費用の面*3でも時間の面でも続ける機会にしばらく恵まれず、やっと2年目を取れたのが2013年。NAVのポリシーに以前から疑問を感じていましたが、学べば学ぶほど、自分が希望するクライアントさんへのアプローチの仕方と実際の業務における枠組みにギャップがあり、もっと同じポリシーの職場で仕事がしたい、と思ったのです。

さて、そんなこんなで、「脱NAV」をかけての転職活動を徐々に始めました。が、本当に数年越しの職探しでしたので、いかにモティベーションを高く持ちつつ、頑張れるか…という、またしても自分との闘いだった気がします。そしてかなりの仕事量をこなしながらの転職活動も、なんとか仕事との折り合いをつけて面接に行く時間を見つけなければならず、ハードでした。*4

 

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NAV Gamle Oslo での最後の日。自分のデスクも片付けて、さようなら。

オスロ・レフジ―キャンプ Oslo Mottak から ウングボー Ungbo へ

2016年、オスロ市が新しく難民キャンプを市内で始めるため、職員を募集していました。ファミリーセラピーに直結した職種ではありませんが、新しい職場というのにとても興味があり、更に60%という求人だったため、これで修士論文が書く時間ができる、と思ったのです。(主人にも収入が減る旨了解も取り…) そして、応募者が多数にもかかわらず、正規の職員としてお仕事をいただき、2016年10月末にNAVを去りました。

結論から言ってしまうと、このキャンプに「ちょっとお邪魔した」おかげで、今の職場にお仕事をいただけた…わけです。UDI(外国人管理局)から請け負って2016年に開館したキャンプですが、UDIの方針変更で2018年3月にあっけなく閉館となってしまったのです。もともと、このキャンプは当時の担当大臣であったリストハウグさんの案で、「インテグレーションをより速く」というコンセプトのもとに設営された5つの「スーパーキャンプ」の一つでした。つまり、亡命申請した方々のうち、申請が許可されるとみなされる方々を収容してこの時点でノルウェー語コース、職業訓練コースに通ってもらって、許可後にはスムーズに社会に適応してもらおうという趣旨だったのです。ただ、国側もオスロにこのキャンプがあることの弊害を徐々にキャッチしたと思われ、上手く行っていたにも関わらず閉鎖を余儀なくされたのです。

さて、60%とはいえ、正規の職員だった私なので、こういった職場の閉鎖にともなっては一定の権利があります。「自分で転職活動をする」という条件付きで、それでも職にあぶれる場合は近い部署から転所できるかどうかを調べてもらいます。まずは同じセクションや部門から。それでも空きがなかったり、自分が適正と認められない場合は、オスロ市全体で探してもらいます。他の同僚がNAVに紹介されるなか、実は自分もNAVに回されるのではないかという一抹の不安はあったのですが、本当に偶然にも以前仕事に応募していたUngboに空きポストがあるということで、所長ら二人から面接を受け、めでたく「引き取って」もらえることになったのです。なんだか、自力でゲットした仕事ではないものの、ここにも(クリスチャン的思考でいう)「導き」があったのかなあ、と思わずにはいられませんでした。そして、この職場でも去年2月からチーム To Skritt Fram (2歩前進という意味)にチーム変更していただくことができました。*5 こちらのチームでは同じファミリーセラピーを学んだ「先輩」たちが2人、と仕事の姿勢や考え方もNAV同僚とは全く違っています。学んだことも活かせるし、もしかしたら、定年まで働けそうな職場かもしれません。

 

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現在、遊園地の隣の住宅街に住んでいますが、冬はこんな感じ。

 

さて、ノルウェーにいる間に20代の若いおネエチャンから50近くのおばちゃんになってしまいましたが、そうですね。後悔はないかな。昔、Mさんから言われたように ノルウェー語という外国語で勉強したり仕事をしたりすることで日本語でやるのと比べて ハンデがないと言えば 嘘になります。実際、私がお仕事をさせてもらった場所を見るとほとんどが難民や移民がクライアントさんとなっているところが多いです。でも、自分の日本人的な労働モラルや仕事に対する真摯な姿勢、正確性などはおそらく周りの方々にはポジティヴに映っているに違いありません。

他の国に比べ、「肌の色」での差別は感じたことはありませんが、人によっては外国人に懐疑的であったり、冷たかったりするのは事実です。それから、異文化バックグラウンドがあることで、仕事におけるチャンスはノルウェー人(で私と同じくらいの知識・経験がある人)とくらべると制限があるかもしれません。もちろん、こんな現状は嬉しいことではないのですが、憂いていても状況が変わるわけではなく…。変えられるのは、状況に対する自分の反応でしょうか。前向きに頑張っていたら、不公平をする人が居たとしても、別なところに評価してくれる人は必ず居る…、というのが持論です。

6月から(思いのほか)長く続いてしまったシリーズですが、ここまでお付き合いいただいてありがとうございました。また次回からは新たなトピックを探してできるだけ読んで意味のある「ひとりごと」を綴りたいと思います。では!

 

(追記:自分の表現不足で伝えたいことがちゃんと伝わらなかったりしたこともあり、ちょこちょこ手直しいたしました。ノルウェー、9月13日)

 

 

*1:5月25日付のルスのブログ参照。本当にこの迷惑加減は日本ではそうそうないですよ

*2:総合福祉事務所 、12月15日のブログ参照

*3:こういった専門的なコースは国からの助成金がないこともあり、学費が年30-40万ほどかかります。そして、このコースはスーパーバイジングの中で会話の訓練をするので、スーパーバイザーの費用も別途必要です。

*4:新しい仕事を見つけてから辞めることで、履歴書に穴を作らないことが重視されます。

*5:去年の10月27日のブログ参照

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その4.オスロのシングルライフ

こんばんは。先週金曜日はクライアントさんとのアポもなく、安倍首相の記者会見をネットで見ることができました。これから日本は誰がリードするのか、本当に注目ですね。

その職場では、これまでは「一人ひとりコロナ対策を守って」かなり自由にテレワークとオフィスを選べていたのですが、今週からテレワークを一人あたり50%に義務づけというお達しがあり、「え、今頃?」というリアクションも多い中、新しい働き方にチャレンジです。

さて、今回のブログでは(まだ終わらない)25周年企画の続編です。またハーデランドを離れ、オスロに戻った頃の私のシングルライフを中心に綴りたいと思います。

 

独身で彼氏なし。またオスロで9平米の一間(ヒーベル)暮らしを始めたのは30半ばをとっくに過ぎた2008年夏でした。行政に携わるソーシャルワーカーとしてもまだ駆け出し。このころ一番の課題は孤独・孤立を防いでどうやって意味のある毎日を過ごせるか、どうやって「ないものねだり」や他人を羨ましいと思わずに自分の置かれている状況を好きになれるか、でした。グランの時に始めたコーラスやボランティア活動でも新しい友達ができたものの、自分から声を掛けないとあっという間に「ぽつねん」となってしまいます。若いころはあまり結婚は意識してなかったのですが、このころになると結婚して家庭を築く友人も増え、焦ってはいないと思いつつも、「自分も人生の伴侶が欲しいなあ」という希望が大きくなりました。なんていうか、時間、お金、労力を自分一人のためだけに使うことが寂しく思われたのです。

 

ネット・デーティング

この希望が浮かんできて「何かしよう」と思ったのは、実はまだカルモイにいる2004年ころ。このころはインターネットで相手を見つけるのはまだまだ「危険なこと」として見られていたのですが、真面目に相手を見つけたい人のための 真面目なデーティングサイト(クリスチャンを対象にしたノルディック全域にまたがるサイトなど)が現れ、私もいち早くこういった場所に出入りしていたのでした。1時間半かけて、休日の土曜日にスタバンゲル(ノルウェー第5の都市)にデーティング相手に会いに行ったことも数回。また、クリスチャンの有志の方が主催していた「ダンス・キャンプ」なる泊りがけのイベントにも1,2回参加。

とにかく、日本では彼氏歴ゼロだった私*1 は異性と知り合いになり、一緒に時間を過ごすことにまず慣れることも目標でした。オスロに戻ったことで、デーティング対象になる方が一気に増え、オスロ以外にも、4時間ほど東にあるスウェーデンヨーテボリのシングルグループにも顔を出していました。(ノルウェーのシングル友人たちの中には、「それってちょっと図々しいんじゃない?」という見解の人も居ましたが。ただ、本当に出会いのチャンスや異性慣れするチャンスを増やしたかっただけです。)「ネットデイタ―」だった7年程の期間でかなりの方と会い、そのうち二人の人と少しお付き合いもしましたが、そこから結婚までには話が進みませんでした。

 

オース市での仕事

さて、仕事の方はどうなったかというと…。9か月の契約で雇われたオースのソーシャルオフィス。実はここもNAV合併を数か月後に控えたオフィスでした。自分ではグランでの経験が活かせる、と思ったものの、ふたを開けてみると使っているプログラムからオフィスの組織、方針までグランとはかなり違い、仰天することが多々ありました。まず、クライアント数が70-80人ほどで、フォローアップは他の同僚がやり、私はひたすら生活保護申請書の事務処理。フォローアップしていないと、クライアントさんもどんな事情で生活保護を受けているかも よく把握できません。また、フォローアップをする同僚はクライアントさんの弁護士のようになり、援助するようにプッシュしてきます。オフィス内で一致して働くというよりも、2極に分かれてしまうという あまり良くない流れがありました。そんなことなら、一人の人がフォローアップから申請書の審査までやった方がまだ効率よく、しかも一人が受け持つ人数も半分くらいになっていたでしょう。

ノルウェーの公の機関ではいわゆる「残業」はなく、忙しい時に定時以上働いた場合は 超過時間を時間で返してもらう、つまり休暇などのように仕事をその分休める仕組みになっています。このオフィスでは超過時間はあっという間にみるみる溜まりました。定時が3時半でも、よく7時くらいまでは仕事をしていたからです。この時経験したのは、地方都市の規模の小さい職場では、一人のリーダーのポリシーや職場に染みついている文化・伝統がものすごく左右するということです。おそらく、このやり方に私はちょっと首をかしげることも多く、それも自分の言動に反映されていたのでしょう。でも、NAV合併もからみ、ものすごいストレスが職員全員にあったため、不満があったのは私だけではなかったのです。同じ業務を担当していた同僚などは長期病気休職した後に転職していきました。

さて、年も明けて2009年。4月末までの契約期間まであと少し。

実はグランの同僚からのアドバイスで、契約が切れる半年前くらいからオスロを中心に転職活動をしていました。面接に行くと、かならず「Referanse」と言って私の働きぶりなどを現上司に問い合わせが来ます。この時に応募していたのは、オスロや近郊のNAVオフィス。ただ、オスロで働いた経験がある・なしがかなりポイントとなり、それでぺけになったところも多かったと思います。いくつくらいの求人に応募したでしょうか…。とにかく、面接には複数回たどり着けても一向に決まりませんでした。オースでも辞めた同僚の後に求人があり、私も応募しましたが、ぺけでした。理由を聞くと、「あなたはこのオフィスに長く居ないと思ったから」でした。でも、その通りだったかも…。

 

オスロでの新しい仕事

4月の中旬、オスロのガムレ・オスロ (Gamle Oslo)という区での6か月の契約職員に応募しました。この時、実は職にあぶれてしまうかもしれない、と半分覚悟を決めていて、NAVに求職者としての登録も済ませていました。そして、この6か月の契約も長期病気休職中の職員の代行だったので、かなり先は見えなかったのですが…。結果的に「滑り込セーフ」で4月の末に採用が決まり、この時はうれしくて本当に涙が出ました。

さて、採用されたオフィスはガムレ・オスロ区の3つあるソーシャルオフィスの中の「新規クライアント受付」オフィス。以前にも触れましたが、オスロ市は他の小都市と異なり、15に分かれた区がそれぞれ小さな地方自治体の役割をして、市民に向けてのサービスを独自に運営しています。なので、同じオスロ市といっても区によって組織やポリシーが少しずつ異なります。ガムレ・オスロオスロ中心部の東に位置し、昔から移民などが多く、おのずと生活保護を受ける方の割合も高いという感じです。同じ区にソーシャルオフィスが3つあるというだけでも、業務量がかなり多いのを意味しています。こちらも実はNAV統合前の段階で、「Dデイ」まで8・9か月前だったと思います。業務内容は、やはり書類審査が中心ですが、新規受付とあり、本当に様々な状況の方々に遭遇しました。ほとんどの方が長期支援が必要とみなされ、他の2つのオフィスのいずれかに転所の手続きを取ります。

グランやオースに比べると規模も大きく、しかもオスロ市が独自に決めた様々な規定なども覚えなければならず、同じソーシャルオフィスとはいえ、最初は仕事を覚えるのも大変でした。嬉しかったのは、給与のアップです。と、いうのもオスロ市は独自の給与設定のシステムで、他の市よりも初任給も高い設定になっているのです。(おそらく生活費も他市より高いためではないでしょうか)

 

フラット購入に挑戦

こちらは不動産はほとんど必ず価値が上がっていくので、不動産購入は比較的一般的です。よく言われているのは、「賃貸だと、窓からお金を捨てているようだ」ということ。ローンの利子の部分も税金控除の対象となることから、定職があるなら、買った方が得なのです。初めはやはり独身で一人で不動産を購入するのは抵抗があったものの、先を考え 購入しようと決め、せっせと貯金をしていました。(一般的に銀行の人が言うのは、年収x3倍がローン可能金額、というもの。)感謝だったのは、まだ契約職員だった私でもローンを出してくださったカルモイの銀行。担当の方も教会がらみで知り合いでしたが、私が収入にあぶれないとポジティヴに判断してくださったのでした。

それから、不動産購入のシステムや選び方も自分なりに研究。月額いくらのローンなら自分が払っていけるのか、ボーレッツラーグにサムアイエ*2や、月々の管理費(家賃、含まれるのは建物にかかる保険や共同のローンの返済金など)がどうなっているのか、など。そして、こちらの中古物件はそれぞれが購入提示金額(Budと言います)を提出した後、オークションのように最高提示金額を提示した人がゲットする(いろいろな理由でいつもこうとは限りませんが)仕組みになっています。

2009年、夏・秋にかけて いろいろな物件を見学しては パンフレットを見て研究していましたが、なかなか手頃な物件もなかったことから、Budを出すまでには至らず。オスロ市内は古い建物でもかなり高価ですし、しかも要リフォーム物件も多いのです。それから、物件が古いと大掛かりな排水管の取り換え工事などもあることで、共同ローン部分がかなり大きくなって管理費も高いところが多かったり。リフォームもこちらは自分でやる人が多いのですが、私にはちょっとハードルが高すぎることから、とりあえず新しめの物件を見ることにしたのです。と、なると、必然的にオスロから出なければなりません…。

2009年の12月、オスロの東隣りのローレンスコーグ市にちょうど築6年くらいの38平米のフラットが売りに出されていました。12月は通常クリスマスムードで一色になり、2週目ともなると、世間が不動産購入どころではない、ということもあり、比較的買いやすい時期なのです。ヴィ―スニング(見学会)に来たのは実は私一人。値段も貯金プラス、ローンで何とか行けそうです。難をいえば、オスロから1キロほど出てしますので、定期券が2倍になること… くらいでしたか。とにかく、冬の暗く、寒いときに フラットに入った時のホッとした感覚が自分でも気に入り、初めてのBud提出…。そして次の日にはあっさりこのBudはアクセプトされて、難なくゲットできたのでした…。2010年の3月に引き渡しです。

 

ネットでの新しい出会い

そして、この年の暮れ。ノルウェー人の女の友人を連れて日本に里帰りというとき、以前にちょっとだけコンタクトがあったKさんからデーティングサイトで再度アクセスです。「いまから日本に行くので、会うのは年が明けてからですね」と言い残し、そしてあまり彼のことは気にもかけずに 日本でお正月をのんびり過ごしていました。このKさん、10月ころにやり取りはあったものの、返事がずっと来なかったので「興味なし」ボックスに入っていた人なのです。私としたら、「なんだろう、今頃になって」とあまりポジティヴなリアクションではなかったのですが…。

 

さて、オスロに戻ってからのシングルライフは何とか仕事でもプライベートでも自分の生活を意味あるものにしていこうと いろいろ頑張ってきました。結婚願望もありましたが、相手は慎重に選びたかったので、もしいい人に会えなければ もう独身で行こうと覚悟のようなものも決めていたと思います。自分がクリスチャンということもあり、やはり同じ信仰を持った人で人間的に良い人・自分に合う人…を希望していたのです。

次回ブログでは様々な変化が起こった2010年から綴っていきたいと思います。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

*1:ティーンエイジャーのころに集団でいじめにあったりしたことも関係していますが、これはまた違うブログでシェアしたいと思います。

*2:Borettslag は住宅協会と訳せますが、不動産は協会の持ち物で、買うのは居住権という形です。一方、Sameieは全く自分のものとなります。購入時の国に払う費用が低かったり、また団体だといろいろな利点もあるので、ボーレッツラーグはかなりポピュラーな選択です

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その3.ハーデランドで

こんばんは。皆さまお変わりありませんか?

日本は全国的に猛暑が続いていますね。先日、実家のクーラー設定温度の件で母とディスカッションとなりました。ちょっと雰囲気が悪くなってしまったのですが、こればっかりは…。でも一度自分の考えを伝えたので、もし万が一の事態が起こったとしても、後悔せずに済みます。知り合いのケア・マネさんいわく、このようなバトルはいたるところで繰り広げられているようです。

ノルウェーでは、「公共交通機関で1mのソーシャルディスタンスが取れない場合のマスクの勧め」が、この月曜からオスロオスロ近郊を中心に始まりました。これは「マスクなんてできない」ノルウェー人にとっては、かなりの飛躍です…。

さて、今日のブログでは引き続きこの四半世紀を振り返る内容です。やっと(?)2007年までやってきました。5年半お世話になった西ノルウェー、カルモイを出て、再び東ノルウェー、ハーデランド地方*1に帰ってきたところからです。

 

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 ノルウェーのソーシャルオフィス

さて、「普通のソーシャルワーカーとして仕事して、成長していきたい…」という希望通りに、オスロから北に70キロほど離れたグラン市のソーシャルオフィスの仕事をいただき、こちらに移ったのが2006年の暮れ。ソーシャルオフィスとはいったいどんなところなのでしょうか?

ソーシャルオフィスは自治体(市)によって運営され、主な業務内容は生活保護の授与と生活保護から他の収入へ移行する支援。ノルウェー生活保護は一時的、かつ最終手段であるという位置づけなことが理由です。もちろん、何らかの理由で仕事に就けない方や、その際に他の公的援助が受給できない方もいるので、その場合は生活保護で老齢年金(67歳)まで暮らす方もいます。その他に、生活一般の問題、トラブルについてのアドバイス、住まいがない方への一時的住居のヘルプや住まい探しのヘルプ。また90年代以降、バブル崩壊後にできた借金相談や収入管理のサービスなどがあります。

お金に関わる業務ですので、かねてからソーシャルオフィスで研修などを受けたクラスメートなどからも「いろいろな脅迫にあった」「暴言を吐かれた」など、かなりネガティヴな話を聞いていました。だいたい新卒でも仕事に就きやすい事業所というのも、実はソーシャルオフィスなのです。ただ、ネガティヴな面ばかりではなく、ソーシャルワーカーとしてキャリアを積むなら、ここの経験があった方が良いともみなされています。

 

グラン市のソーシャルオフィス

グラン市はオスロから約1時間の地方都市。人口は1万3000人ほどで、林業、農業などが主な産業です。かろうじて通勤圏内なことから、オスロで働く方々もたくさん居ます。また、マイホームを求めて、オスロに仕事を持ちながら越してくる方もいます。言ってしまえば、ほとんどがファミリーで、独身者はマイノリティーです。

さて、ここの当時のソーシャル・オフィス。全部で10人ほどの職員で、当時は市役所内にオフィスがありました。ほとんどが地元か近郊からの人で、長く働いている方々も。ルーティーン的には、朝は8時半に「ブリーフィング」を兼ねたコーヒータイムで始まり、一日の予定を話します。この時、もし精神的に不安定なクライアントさんと面談の予定があれば、それを伝え、他の同僚、またはリーダーが安全のチェックをするという、かなり(今から見ると)安全対策がなされていた職場でした。当時のリーダーも、職員がどう働いているか、とても気にかける方で、働きやすい職場だったと思います。

以前のブログにもお伝えしたNAV*2ですが、実はこの時のオフィスはNAV合併する1年前の課程でした。NAV合併には通常「Dデイ」(ヨーロッパではよくつかわれる表現ですが、第2次世界大戦のノルマンディー上陸から取ってます。)が設定され、その日に向かって 通常業務の他に合併に関するミーティングや新しいプログラムの勉強会なども業務内容に含まれていました。

私が最初に担当したのは麻薬常用者のクライアントなど。彼らは「LAR」(Legemiddalassistert rehabiliteringの略)という、いわゆるリプレイスメントを薬局から毎日もらって飲むことで、クオリティオブライフの向上を目指すというプログラムに参加していました。多くの方が労働能力欠如とみなされる時に国から支給される Uføretrygd、ウーフェーレトリグド(通称ウーフェーレ)で生活していましたが、歯科治療や、その他特別に必要な費用(クリスマスをのお祝いやプレゼントを買うお金など)を生活保護申請していました。日本の現状は詳しくはわかりませんが、このような手厚い対応はないのではないか、と思いながらその方々に接していました。その後少したってから職場内の編成で難民の方々の担当になりました。ここで難民受け入れのシステムについてちょっと。

ノルウェー難民認定されるかたの入り口は2つ。一つは国連経由で(国連の難民キャンプなどで、ノルウェーが引き受ける人数が決まっており、そこから選ばれ来られる方々)で、もう一つはノルウェーに到着後、自ら亡命申請し、ノルウェー国内のキャンプで申請書の承認を受ける場合です。いずれの場合も、ノルウェーの各自治体での受け入れ人数に合わせ、各市に送られます。その際は、市の方は住居などもあらかじめ用意しておくのが通例です。言葉の壁があり、電話通訳などを使いながらの対応。でも、みなさんポジティヴな態度の方々ばかりでした…。

 

ハーデランドでの暮らし

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カルモイとは違い、こちらは内陸…冬はきれいだけど、こんな感じです。

さて、カルモイを離れた後、新しい土地での再出発。生活の方はどうだったかというと…。

引っ越して間もない2月。きっかけは覚えていないのですが、オスロの中心にあるTrefoldighetkirkenの夕方の礼拝に行ってみたところ、なんと最後に通ったキリスト教基礎学の時にメンターとしてお世話になったA.M先生が牧師としてその教会におり、しかも学生時代のクリスチャンのサークルでの知り合いが一人や二人ではなく、かなり複数来ているではありませんか!久しぶりに会う懐かしい顔ぶれにすっかり嬉しくなった私は隔週末にあるこの夕拝にまた絶対来ようと決め、しばらくするとコーヒーを作る奉仕チームにも加わっていました。

実はハーデランド地方はファミリーが多いことから、なかなか地元で友達を作ろうと思っても大変なものがありました。それから、オスロには少数でしたが、昔の知人・友人が残っていました。新しいボランティアやコーラスグループにも入り、週のうち3-4日はオスロにいるという なかなか忙しい生活が約1年続きました。ただ、住まいからオスロまでは往復120キロ。時間とお金がかかります。そんなこんなで、仕事はここに通いながら、グランとオスロの間くらいの場所に新しい住まいを見つけることも検討。実はこの時、一人で住む小さいフラットを購入することも考えたのですが、あまりに買える物件(イコール銀行からローンを出してもらえる金額)が小さい、ということもあり、今すぐには無理だと判明。ただ、あまり通勤に時間がかかったりお金もそれなりにかかることはマイナスと見て、徐々にオスロまたはオスロの近間に引っ越して、そこで転職することも考え始めたのでした。

 

チャンスは突然やってきた

この時の転職活動は、ソーシャルオフィスの経験があることからまさかの一件目くらいで決まってしまいました。私の人生では一番楽な転職活動でした。場所はハーデランドとは反対にオスロの南に隣接したフォッロ、Folloという地域にあるオース市。(そう、現在主人と住んでいる市ですー。何かのご縁ですかね?)しかも、2005-2006に少しかじっていたファミリーセラピーの教育も考慮していただき、給与もアップしたのです。ただ、9か月間の契約、産休の方の代行です。その後どうするか多少の不安はあったものの、オスロに近づくことは私にとっては プライベートの充実であり、やはりこの時はかなりの優先順位でした。

さて、住居ですが、まずフラット購入のための資金作りという目的があったため、それほど高い家賃は払いたくありません。ところが、オスロは2007年あたりから小バブルのような不動産の沸騰で、それに伴い、賃貸の家賃も半端なく高くなっていたのでした。とすると、シャアハウス。何件かシェアハウスや個人宅の地下の間借りなども見に行ったのですが、イマイチ。そこで思い出したのが最後に行った学校のあるFrikirkenshus(フリーチャーチハウス)。ここでは建物の一部を部屋単位*3で貸していたのです。問い合わせると、なんと、一部屋空いているとのこと。家賃は2700クローネ(2万5千円くらい)で光熱費、インターネット込。車があったので、専用駐車場も無料というのはかなり目玉でした。ただ、キッチンや洗面は共同です。そして、部屋の広さが9平米とかなり手狭だったこともあり、借り倉庫もしたので、この費用をいれても3000クローネでおさまり、これ以上安い選択はありません。本当にこの時は、いろいろなことがトントン拍子で前に進んでいったという「数少ない」経験だったかもしれません…。グランの同僚たちともかなり仲良くなっていたので、本当に残念でしたが、将来的にも なぜかこれが一番いい選択だという気がしました。(この第六感が当たったかどうかは次回以降参照ください。)

2008年夏、1年半だけお世話になったグランを離れ、再々出発。

友人の中には30代半ば過ぎにして「え、またヒーベルなの?すごい、よくやるね」という人も居ましたが、目標の貯金額を達成したら出るつもりでしたので、何を言われても気になりませんでした。

さて、グランでとても良かったことの一つは「労働環境のいい職場」に出会えたこと。この後も職場は変りますが、この職場はいろんな意味でずっと記憶に残っています。リーダーがチームワーク作りにたけていたのだと思います。ちなみに、このリーダーは今ではオスロのとある区のお偉いさんになっていますが、やはり手腕リーダーだったので納得です。

私が求めていた、チャレンジはどうなったか、というと…。実はグランでは担当クライアントが30人以下という、かなり恵まれた環境で、一人ひとりにも十分丁寧に接することができたため それほど難しい事態には遭遇しませんでした。しいて言えば、麻薬常用者のクライアントさんの中に、かなり人種差別的な人が居て、嫌な思いをしたこと…くらいですかね。

 

次回のブログではオースでの9か月からいよいよオスロのソーシャルオフィスへ。また、オスロでのシングルライフや初めての不動産購入などについても触れたいと思います。興味のある方は引き続きお読みいただけると嬉しいです。では、また!

 

 

 

*1:主にガラス工場で知られている地方です

*2:Nye arbeids- og velferdsforvaltning

*3:ノルウェーでは部屋の賃貸をヒーベルと言い、おもに学生さんなどが借りる物件です

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その2.カルモイのディアコーン時代(後)

こんばんは、マイユニです。前回ブログより早くも2週間。この間にもコロナ状況は世界的に悪化していますね。日本には後期高齢者の母が居て、かなり心配しているのですが、幸い週に何度かTV電話で会話できるので、本当に文明の利器に感謝です。日本でもお盆の帰省が難しい方が沢山いて、お気持ちお察しします。私もいつ日本に里帰りできるのかな…。

さて、前回のブログでは2001年に西ノルウェーのカルモイという島でお仕事をいただき、学生ビザから就労ビザへの更新までの経緯を綴りました。今回は、実際の仕事や生活について。こちらでお世話になった2006年暮れまでのお話しです。

 

2001年当時のカルモイの教会

私がお仕事をいただいたのは、ノルウェー語では「Den norske kirke」と言いますが、当時は国が運営していたことから、民間運営の教会と区別するため「ノルウェー国教会」と呼んでいました。職員はすべて国家公務員(牧師)または公機関(Kirkelig fellesråd) の職員という位置づけです。組織的にはなかなか複雑になっていて、Kirkelig fellesrådが私の雇用者でしたが、人事的な業務にとどまり、実際の仕事内容などは教会の役員会が決定権を持っていました。簡単に言うと上司が二組居る感じです。

そして、私の勤めていた教会区でさらに気を使わなければならなかったのが、二つの教会の存在。地理的にはそれほど大きくない範囲ですが、公用ノルウェー*1から文化から伝統まで全く異なります。一つは私の住んでいた町にあり、もう一つは西に約10キロいったところにありました。この二つ目の教会は、規模も小さく、どちらかというと「弟分」のような教会ですが、やはりいつも弟と扱われることのジレンマがあったようです。カルモイ全体では全部で5-6の教会区があったと思います。今はカルモイは一つの自治体ですが、昔は教会区と同じくらい複数の自治体に分かれており、南カルモイと北カルモイでは異なるダイアレクト(方言)が話されているそうです。私などには違いを聞きとれるはずもなく…でしたが。とにかく、自分の町や村に大変誇りを持っている方々でした。それはそれでポジティブなことだと思いますが、そういう文化背景に限ってやはり外から来た人が溶け込むのはかなり大変かもしれません。

ちなみに、誰が教会員なのかというと、国教会はルーテル派というプロテスタントの教派で、幼児洗礼があるため、幼児洗礼を受けた人が教会台帳に登録されます。引っ越しをすると、今度は新しい住所が所属している国教会に自動的に登録される仕組みです。なお、国教会から脱退したい場合は(オンラインで)可能です。登録することのメリットは教会における冠婚葬祭が無料ということでしょうか。葬儀なども、葬儀やさんには料金をはらうものの、牧師・オルガニストや教会使用に対しては無料です。

 

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教会報のページより。「按手式」というディアコーン就任式にて。

 

ディアコーンの仕事

先述の通り、役員会で決められた内容がそのまま業務に反映されます。ただ、新しく職務内容を作る、というよりは大体の内容は前任者、Oさんのされていた仕事を引きついだ形になりました。

独自の文化や伝統が色濃い二つの教会ですが、特に大きい方の教会については、初代ディアコーンだった方の影響をかなり受けていました。その方は私が来る10年以上前に引退されたとのことですが、いろいろな業務がその当時のまま引き継がれていました。たとえば、二つの教会では交互に日曜礼拝があったのですが、大きな教会の方は聖書朗読や幼児洗礼のアシストは私の役目になっており、もう一人の同僚は小さい方の教会で同じ役割をしていました。最終的にはこの伝統にも終止符が打たれ、私も小さい教会の方で礼拝のお仕事をしたのですが…。カルモイの他の教会ではこういったことは教会員の方の奉仕(ボランティア)によって行われているのが主流だったので、不思議な感じがしました。(今はどうなっているか、ちょっとわからないのですが)

その他 Oさんより引き継いだ仕事は、お年寄りの家庭訪問、お母さんと赤ちゃんの午前中の集まり、10歳―15歳の子たちの金曜日のクラブなど。どの働きも私一人ではもちろんできないので、ボランティアの方々にお手伝いいただいていました。そして、ボランティアさんたちのケアも私の仕事です。具体的には奉仕に関係のある、彼らの興味のある内容で勉強会を開いたり、自宅に食事に招待したり。数人の方々とは親しくなり、今でもコンタクトがあります。私の代になってから始まった働きもありました。いわゆるグリーフワークといって、身近な方を亡くされたご家族のケアのグループや堅信礼を受ける中学校2年生の子たちの「ディアコニア・グループ」の仕事です。

ディアコーンという職種は各教会区に一人いるかいないかという感じですので、なかなか孤独な仕事です。幸い、隣の教会区や他の町のディアコーンさんたちと お互いに励ましあうネットワークもでき、共同でのプロジェクトにもかかわっていました。

 

いろいろなチャレンジ

「100人いたら、100の意見がある」と言われていたのですが、教会という場所はいろいろな意見を持った方々が集まっています。ある方は役員会の方、ある方はあまりアクティブには関わってない方。でも、皆さんそれぞれに自分と教会とのつながりや思い入れがあるので、そんな様々な意見や期待に応えられずに翻弄されることもありました。

初めに一緒に働かせていただいた牧師(私の在任中、牧師が数人代わりました。)は退職まじかの初老の男性だったのですが、どうも私のアクセント交じりの東ノルウェーの発音が気に入らなかったらしく、聖書朗読があるため、マンツーマンで数回特訓させられました。(あまり期待に応えた発音はできなかったので、途中で中止になりましたが。)当時はそれでも一生懸命期待にお応えしたいと思い、さほど気にはならなかったのですが、今考えると、ちょっと無理な注文でしたね。それに、私がノルウェー人だったら同じことをしたかしら、とも思います。

教会で働く、ということは、実は教会の皆さんに仕えるということも 徐々にわかってきましたが、最初はやはり学校で習ったセオリーや、自分でいいと思うことにこだわっていたと思います。その点、自分の役割や立ち位置をよくわかってなかったな、と反省です。典型的な例を挙げると、ボランティアで訪問していた難民キャンプ。せっかく住人の皆さんやキャンプの職員の方々とコンタクトができたのに、教会役員会は私のキャンプとの関わりにかなり難色を見せていました。プライベートでも関わってほしくないような雰囲気です。(プライベートに関しては彼らは決定権はありません。)私としては、孤独で辛い環境にいる方々を少しでも慰めるような働きをお手伝いしたかったのですが、この関わりも徐々に減って、後にこのキャンプは閉鎖となりました。

 

感謝なことの数々

オスロで学校を出たばかりでノルウェーにも6年住んでいただけの外国人の私を暖かく迎えてくれたカルモイの方々に今でも感謝の気持ちでいっぱいです。最初は本当に使えないディアコーンだったに違いありません。私にとってはこの経験で昔よりかなり柔軟な人間になることができたと思います。中でも、一緒にディアコニアの働きに加わってくださった教会員の方々に多くのことを教わりました。

また、カルモイという小都市で暮らせたことも 豊かな経験となりました。多種多様なオスロやその他の大都市と比べると良くも悪くも人と人との関わり合いが密で、人情味あふれた土地だと思います。

それから、少数ですが良き友人にも恵まれました。私の上に住んでいた同じ年のGさん。彼女とはディアコーンという肩書にとらわれず、いろいろなことをオープンに話すことができ、彼女の出身のハウゲスンにも毎週のように遊びに行っては彼女のお母さんや友達とご一緒させていただいていました。うちの母が遊びに来た時なども彼女のお母さん宅で会食などもさせてもらったり、私がハウゲスンで教習所に通っていた時もお母さん宅へ立ち寄らせてもらったり、今でも良い友好関係を継続しています。Gさんは私がここを離れると決めた時も、寂しいと言いながらもあと押ししてくれました。

 

新たなチャレンジに向けて…次のステップ

数年経ったころには、仕事にも慣れ、教会の皆さん方とも親しくなり、居心地はとても良かったのです。ところが、自分の中でだんだんと課題が生まれてきました。その一つは、自分のプロとしての成長。多少のチャレンジはあったものの、皆さんから感謝されてばかりで、職業的なチャレンジがなくなってきた、と感じ始めていました。これでは成長していかない、と思ったのです。そんなこんなで、一度 普通のソーシャルワーカーの仕事をして、思いっきりクライアントさんから批判されたり 足りないところを把握できる環境に自分を置きたいと思ったのです。もう一つの課題は孤独な生活からの脱出です。月に2週末 礼拝での仕事があり、クリスマスやイースターも休暇がなく、うちに居なければいけません。友人もGさん以外はあまりいなかったので、本当に身をもてあまして、一人で「ぽつねん」と過ごすことも多くありました。もっと大きな都市なら、独り身でもそういった休暇の時期に居場所を見つけられるのではないか…と。

そんなわけで、永住許可を得た2004年秋以降、転職活動を始めたのです。時には面接で、遠方に自腹を切って行ったり(オスロにも飛行機で数回面接に行っていました。)。ソーシャルカレッジを出てから、かなり特殊と見られるディアコーンの経験しかなかったので、転職もかなり困難でした。そして、労働市場にも疎かったため、チャンスを逃したことも多々あったと思います。ただ、くじけそうになっても 求人募集に応募し続け、面接にも気持ちを切り替えて出向いていました。そして、2006年の夏、オスロから70キロほど離れた市(ハーデランド地方にある)のソーシャルオフィスでお仕事がいただけました。話を聞くと、当初は一つだけの求人だったのですが、もう一人採用する予算があったため、(こういうことってかなりあります。)選考時にナンバーツーだった私にもオファーが来たのです。新しい仕事の契約は2007年の1月2日からでした。両方の教会の皆さんに見送られ、ちょっと後ろ髪を引かれる思いでお世話になったカルモイを去りました。

さて、結果的には東ノルウェーに戻ることになったのですが、まったく未知の土地での新しい出発でした。この時、35歳。唯一、生活が安定していたことが救いです。

先にも書きましたが、実は友人Gさん、お母さんやボランティアでヘルプしていただいた方々などともSNSを通じてコンタクトがあり、時間を見つけて主人とカルモイをこれまでも数回訪ねています。私の中では、カルモイは日本の次に大切な場所となっています。スペースの関係で書けなかったエピソードなどは またいつかこの場所でご紹介できるかも知れませんね。

 

さて、この25年を振り返るシリーズも 8月に入りそろそろ終盤になってきました。2007年から今年まで、何回でカバーできるかわかりませんが、頑張ります。

長文、お読みいただきありがとうございました!

*1:ボークモールとニーノシュク、bokmål & nynorsk

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その2.カルモイのディアコーン時代(前)

こんばんは。いかがお過ごしでしょうか? 前回ブログから10日くらいの間に「日本、どうしちゃったの?」という動きになってきています。こちらでは、「日本人は強制的な政策が要らない 優秀な国民だ」という見方です。ノルウェーでも、スペインにバカンスに行ったのにあちらの感染状況が急に悪化したことで、急きょ帰ってこられた方々も居たようです。コロナ、世界的にまだまだ続きますね…。

独断・偏見の「独り言・ブログ」として書かせていただいています。今日はノルウェー生活が5年半経った、2001年。この年、私の人生がまた大きく進路を変えました。

前回の続きから:2001年春、学生として生活していたノルウェーをいよいよ離れ日本に戻るときが近づいて来ました。ところが、またしてもダメ元で、「働いてみたい、働いた経験が欲しい」という気持ちがふつふつと芽生え、行動に移すに至りました。これまでも夏のバイトなどの就活はしていましたが、フルタイムワークの就活は初めてです。仕事のオファーをいただいた後にワーキング・パーミット(就労ビザ)を申請するという順番です。

当時、学生ビザを取得後、5年間ノルウェーの外に出ていないと就労ビザはもらえないという規定がありました。それは、やはり第3か国からくる学生たちの多くがノルウェーに居残ることを望み、結局「ノルウェーで得た知識を自国に持ち帰る」、という学生ビザの主目的が阻まれるからだ…と、聞きました。ただ、就労ビザを持っていた人の中には「学生ビザから更新した」という人が居て、いわゆる「スキルド・ワーカー」*1 という種類のビザがあるというのを知りました。

 

ノルウェーで就労するということ

先のブログにも出てきたMさん。彼女は翻訳やコーディネーターを営む自営業でした。彼女は実は私がノルウェー語で職業コースを学ぶことも、その後にノルウェー人と肩を並べて働く、ということにも少し懐疑的でした。と、いうのも 「どうやって限界のある外国語で学んだことを、ノルウェー人同様に使いこなして、プロとして働けるのか」という考えだったからです。彼女には日本でソーシャルワークを学びなおすようにも勧められました。私はもともと、そこまで深くは考えておらず(根がおめでたいのでしょう。)考えていたのは1,2年先。ノルウェー社会にどっぷりつかるつもりで仕事を見つける、というよりは 勉強したことを実践しながら数年訓練させてもらいたい、という感じで仕事をしようと思っていました。Mさんは外国人がこの国で働いていく厳しさを体験されていたと思います。なので、親心からそう言ってくれたのでしょう。

その一方、「ヨーロッパキリスト者の集い」*2で会った同じ世代の人たちから、たいへんな刺激も受けていました。彼らは、「日本に帰るということだけが、唯一の選択ではない」「世界人として生きればいい」「日本人が海外で活かされる場がある」といった、かなりグローバルな感覚を持っていたのです。

 

就職活動

さて、求人はクリスチャン新聞、Vårt Landの求人欄から始まりました。毎週金曜に教会職員の求人が出ていたのです。最初に受けたのはオスロのある教会。面接までは行きましたが、やはり資格だけあっても、経験のなかった私はぺけでした。そして、ディアコーンの求人もかなり限られていたのです。もう、こうなったらノルウェー全国で就活するしかない、と出ている求人には手当たり次第応募し、しかも自分でも金曜の新聞に「日本人ディアコーン・カンディダート 職求む」と、いった広告も出しました。

この広告の後、カルモイの教会から電話が来ました。「うちの求人に是非応募しませんか」と。この電話のころ、別の応募してあった教会からもなんと、「書類審査であなたに採用が決まりました。」と返事が来たのです。面接もなしで、予想外です。この地域では面接なしで採用決定するのが普通らしく、私以外に求職者は居なかったとのこと。ところが、そこは、北ノルウェー、ロフォーテン諸島にある教会。行って皆さんにお会いして、どんな場所か確かめたい、と申し出ました。すべての事業主がそうではありませんが、たまに面接のための旅費などをカバーしてくれるところがあります。そのロフォーテンの教会も、「あなたが、こちらのオファーにOKした場合、旅費を出します」と言ってくれました。

一番安い手段を使い、トロンハイム経由でライネ、Regneに向かいました。ただ、Bodøからの船旅がとてもきつく、究極に船酔いして、大変なことになっていたのです。そんなこともあり、あちらでは「未来のうちのディアコーン」という感じで大歓迎していただいたのですが、気持ちは消沈。すこし考える時間をいただいて帰りました。

 

大・大・大失態

さて、そうこうしているうちに、カルモイからも面接の招待が来ました。こちらは、ロガランドという県にありますが、この地方には 東北ご出身のMご一家が住んでいます。このご一家とはオスロのMさんを通じて知り合ったのですが、日本に帰らなかった年末年始の休みに数回 よらせていただいたりして、大変お世話になっていたご家族です。しかも、奥さんがまるで実家に帰ってきたような味の日本食(北海道出身ですが、ルーツは福島・秋田・新潟です)を作ってくださることもあり、本当にMご一家での滞在は、心の芯から癒された時間でした。カルモイへの面接も、Mご一家のお宅に数日泊まらせていただきながらでした。

さて、面接当日。ロガランドはかなり方言が強いことで知られている地域でもありますが、面接場所への行き方の指示をすっかり聞き違え、所定のフェリーに乗れず、ほとんど半日遅れで到着するという あってはならない大失態をしてしまったのです。先方は、面接に呼ばれていた全員を半日観光にご招待してくださっていたのですが、私が着いた午後には他の皆さんは観光も面接も終わり、帰ってしまわれていたのです。半分半べそ状態の私だったのですが、みなさんになぐさめられて、やっと面接終了…。当時ディアコーンだったOさんともいろいろお話しをさせてもらい、なんとも申し訳ないやら、恥ずかしいやら、もうおそらく皆さんとは2度とお会いすることはないと思い、深々とお礼をしてMご一家のお宅に戻ったのでした。

ノルウェーの面接では通常「Referanse」といって求職者の働きぶりやどんな人物かを問い合わせる人物の提示を求められます。この時、行っていた教会の牧師先生にこの役目をお願いしてありました。

次の日、誰も予想していなかった驚きの事態が発生しました。時間はまだ午前10時台。カルモイからの電話で私に採用決定したというお知らせが来たのです。今でも思い出すと、ちょっと震えてしまう感じですが、「こんなことってある?」と、しばらく放心状態でした…。昨日の失態と言い…。ただ、Referanseの牧師先生がかなり私のことをポジティヴに話してくれ、しかも事務所長と共通の知り合いがいた、ということも功を奏したのでしょうか。(世間は狭し…。ノルウェーだからですかね?)

 

難しい選択

私の個人的、クリスチャン的な思いは、「神様に導かれたところで働かせてもらいたい」でした。どこが、神様の「みこころ」(クリスチャン用語で神様のお考えという意味)なのか???客観的にみると、他に応募者が居なかった(かわいそうな)北ノルウェーのライネなのではないか、と思うのですが、そこを選ぶことが本当に正しいか確信がなかったので、悩みました。当時の学校の先生に相談の結果、「その二か所の中で自分が行きたいところはどこか?」という質問に、かっこつけずに ありのままの自分の正直な答えは カルモイでした。(後日談ですが、お断りしたロフォーテンではお会いした事務所長の方がディアコーンの教育を後に進んで受けられ、ご自分が就任された、というのを聞き、私が断って良かった、と思ったのでした。その方の方が適材適所だったと思います。)

次の大きな課題はまたしても ビザ。先方にも労働許可が要るということは正直に話していて、許可が出るまでの間、「ボランティア」として教会に関りたいというのを申し出ました。でも、どのくらい時間がかかるかも全く分からない状態でよく採用してくれたと、また不思議な感覚です。

冒頭にも書きましたが、私が狙っていたのは労働許可の中でも「トレイニ―ビザ」。最長2年で降りる許可です。これまでもUDIに「許可は出しません」などと言われてきただけに、しっかりしたアピールが申請書で必要でした。

 

オスロにさようなら

8月。2年間住んでいたDiakonhjemmetの学生寮も引き上げの手続きをし、荷物をまとめます。引っ越しのトラックはカルモイの方が頼んでくれ、住居もあちらに見つけていただきました。さて、あとは私が引っ越すだけです。当時していた夏のバイトはマルチ・ハンディキャップを抱えるユースのケアだったのですが、そこも7月いっぱいで終わり。ビザがないと就労できないので、次にいつ収入があるか、わかりません。数人の友人に見送ってもらい、5年間住んだオスロを離れます。カルモイでは誰も知り合いも居ませんでしたが、Mご一家が同じ県にいると思うと勇気づけられました。

 

カルモイ

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私が働くこととなった二つの教会はカルモイの南部にありました。大体一年目に住んだボーくらいの、4000人規模の町に住むことになりました。見つけていただいていた住居には私の引っ越し荷物が運ばれていました。ところが、ここは町から2キロ離れた「ひっそり」と立つ一軒家(の2階)。すぐそばに入江があって、教会も近くです。とっても素敵な場所なのですが、9月ころになると外は真っ暗になり、鳥や動物(羊)の声が響き渡ります。実は、私、暗いところがちょっと苦手なのです。うちにもびくびくしながら帰り、うちの中でも外が真っ暗なので落ち着きません。いろいろ悩んだ末、同僚に話してみると、街の方にアパートが一件空いているという情報をゲットしてくれ、彼がいろいろ大家さんなどに話を付けてくれ、「是非、引っ越してきてくださいよ」ということになりました。この時、収入もいつ入るかわからない私に、デポジット(敷金)なしで貸してくれるとは…。しかも、収入が入るまで割引もしてくれるという、なんて良い方々なんでしょう!

オスロは小さくても首都ですので、いろいろな人が集まっています。一方、カルモイはほとんどが地元の方々。当然ですが、文化・伝統にも誇りをもたれ、この辺ではオスロのある「東ノルウェー」とはかなり違い、なぜかここでカルチャーショックがたくさんありました。これについては次回ブログで紹介したいと思います。

さて、私の教会の奉仕がボランティアの形で始まりました。ボランティアの一つのいい点は、自分の好きな時間で働けるということ。でも、とりあえず職場にスムーズになれるように、スタッフの会議、役員会会議、各委員会の会議などには参加。重要なのは皆さんと知り合い、皆さんにも私がどんな人かを知ってもらう、ということです。信頼関係が成り立たないとできない仕事です。「日本人」ということで、教会報などにもバックグランドについてインタビューを受けたりしました。小さい町なので、教会にはあまり来ない方も私が誰か、というのは大体わかっていたでしょう。

この時期、教会の裏手にも難民キャンプがあり、そこにもボランティアとして訪問の活動をお手伝いしていました。それから、街にあるボランティアセンター(Frivillighetssentralen)にも顔を出しては、所長さんにいろいろな方に紹介していただきました。ここは、昼間はカフェ、夜はスペイン語教室やダンス教室と様々な活動があり、暇だった私にはありがたい場所となりました。

どんな場所かは、Visit-Kamøyでご参照ください。 

www.google.no

 

就労ビザ

さて、9月の国政選挙で「保守党」(Høyre)が躍進し、政権をとりました。保守党が訴えた政策の一つが、人手不足の解消。実はこの時期、スキルド・ワーカーが足りない事態だったのです。なので、これまで学生ビザで、ノルウェーで学んでノルウェ語をマスターしている外国人に就労ビザのチャンスを与えようと積極的に動いていたのです。実際、10月ころには先述の「5年間の国外待機の規定」を、スキルド・ワーカーと認定される人に限り除外するという新しい法律ができました。

暇があれば図書館などでUDI関係をチェックしていた私ですが、このニュースを見て早速 当時ヘルプしていただいていた団体、SEIF*3 に確認を取ると、「私にも適用されると思う」との答え。なんてタイミングでしょうか!そこで、UDIに一筆書き、SEIF経由で送りました。

そして…10月末。待ちに待った就労ビザが下りました!(2か月半くらいの審査機関はかなり短いと言えます。)しかも…いただいたのは、「トレイニ―」ではなく、「スキルド・ワーカー」のビザでした。このビザは毎年更新できて、3年後に永住許可を申請できるビザです。カルモイにある警察署がUDIの窓口になっていますが、こちらは皆さんニコニコ親切。許可が下りてよかった、ウェルカムと言ってもらっているような感じです。さすがに、涙がでました。

と、同時に本格的にいよいよディアコーンとしての働きがスタートです。

 

次回の後編では、仕事ではどんなことをしていたのか、様々なチャレンジ、外人であることのハンデやカルモイでの生活などなど… を、ご紹介したいと思います。

世界中で第2波が来ているコロナの状況、ワクチンの開発など 祈りつつ。長文、お読みいただきありがとうございました。

 

*1:ノルウェー人、またはヨーロッパ経済機構内の国籍の求職者が居なく、それ以外の国籍の人を雇う理由がある場合。雇い主より書面で証明してもらい、許可される就労ビザ。ただし、その分野の高等教育を受けて特殊資格・技能を持つものに限る。

*2:ヨーロッパの国々にある日本語教会やフェローシップが有志で開いている年一回の集会。興味のある方はこちら:https://www.europetsudoi.net/

*3:Selvhjelp for innvandrere og flyktninger

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって…その1.貧乏留学生時代(後) 

こんばんは。マイ・ユニです。首都圏や大都市を中心に、コロナの第2波がいよいよ心配になってきましたね。私も毎日ネットでできるだけチェックを入れています。こちら、ノルウェーは15日からヨーロッパの一部の国を除き、入国制限が解除されました。こちらからもヨーロッパからも往来ができます。今は夏休みの真っただ中なので、交通機関も人は少ないのですが、1か月後がどうなるか。感染は広がるのか…が心配要素です。なにせ、ノルウェーはマスクの規定もいまだにないですから。

 

さて、今日は前回の続きで、留学生時代の後半です。1995年に一年の予定で留学しましたが、ノルウェーソーシャルワーカーを教育している地方短期大学(høgskole)に進むことができました。結局、そこを1999年に卒業後、プラス2年間の専門教育を受けることとなり、最終的に学生生活は6年に及びました*1

 

最悪なスタート

オスロのソーシャル・カレッジに入れたはいいものの、ホームレス状態で始まった1年目*2。そして、クラスはなんと90人の定員をはるかに超えた120人の学生たち。なんでも、この年の入学審査で間違いが生じ、30人余計に入学許可を出してしまったとのこと。(私もそこでまぎれた一人だったのかも…)

レマルクでは外国人クラスだったために、学校側もかなりいろいろお膳立てしてくれた環境でした。(と、いうのはオスロに来てからわかったのです!)ところが、ここでは一学生として ノルウェー人と一緒に勉強するわけですから、もちろん特別扱いや配慮もなく…。ですが、教科書をそろえるところから、右も左もわからずです。しかも、わからない単語がたくさんあって、目がまわるような毎日でした。そんな私を見て、他の生徒たちは「なんでここにいるの?」的に首をかしげていました。私が学生ビザで滞在している留学生とわかると、「ここで働けないのに、なんで好きこのんでこの勉強をしてるわけ?」と驚きの目で見られました。通常は就職するために 皆真剣に勉強しています。それで、わたしはまるで趣味でお勉強でもしているように見え、不可解に映ったのかもしれません。ただ、通常の会話にも苦労していたので、気の毒に思ったクラスメートも居たことでしょう。こんな時、やっぱり親切なのは同じ外国人。クラスには難民としてノルウェーに数年住んでいた外国人が数人いて、いろいろなことを聞いたり教えてもらっていたのでした。

 

人生最大のピンチ!

この秋はあらゆる面でこれまで味わったことがない、危機的状態でした。Mさんのように数人の日本人の知り合いは居たものの、毎日は本当に孤独な自分との闘いです。生活は学校と住まいの往復で、帰宅後は教科書と首っ引き。1ページ教科書を読むのに辞書を引き引き…1時間以上はかかっていました。クラスでもコミュニケーションがやっぱりうまく取れなくて、「ダメな自分」を毎日感じていました。日本では決して優等生ではありませんでしたが、だいたい中くらい。それがこの時は完璧に外れているのです。皆とあまりに違いすぎて、相手にもしてもらえない。この経験は、かなり衝撃で辛いものとなりました…。(でも、振り返ると貴重な意味のある経験です!)

クリスマスが近づくにつれ、「私ここでなにやってるんだろう」という思いばかり浮かんできました。はあ、去年は楽しかったのに…。今は本当にダメ人間で友達も居ない…。12月の中旬には試験が迫っていましたが、十分に勉強できていたわけではないので、落第する可能性大です。そこで、もし最初の試験にしくじったら、荷物をまとめて日本に帰ろう、と決めていました。

ところが…。本当に不思議なことですが、試験で出てきたのは前日教科書で丁度読んでいたところ、しかも私が一番よく理解できた部分だったのです! 結局、落第は免れました。そしてクリスマスの前の週にはUDI(外国人管理局)から学生ビザを許可するとの通知も届いたのです。

 

嵐の後の青空

初めての試験をクリアーできたことで、その後の私は以前より自信もつき、クラスの対人関係でも少しずつ積極的になっていきました。勉強の方も学術書を読みなれてくると、内容も理解でき、理解できると楽しく、より自信もついたと思います。2年目・3年目と経つにつれ、言葉のハンデはあったものの、なんとかクラスについていけるようになっていきました。ビザの方は最初の年が許可だったので、残りの2年は落第がない限り許可が下りるという状態でした。

生活の方も、毎夏 何とかノルウェーでのアルバイトを見つけて、規定の生活費はクリアーできました。ただ、それ以外は相変わらず勉強に時間がかかり、バイトはできなかったので、最小限のお金を生活費に充てていました。20年以上前ですが、家賃から何から入れての生活費は月4000クローネ(今のレートでは4万円ちょっと)くらいでした。そのころは日本から留学している同年代の友達も居たのですが、彼らの裕福さと私の貧乏さの差に目を見張りました。パーティーなどに繰り出して、楽しそうな彼女たちを横目に、私は貧乏と戦いながらほとんど勉強だけの毎日を送っていました。

 

クリスチャン + ソーシャルワーカー = ディアコーン

その後の私の進路を語るには、やはり信仰についても語らねばなりません。1年目の辛い辛い時期、クリスチャンだったMさんから聖書を読んだり、祈ることを勧められ、最初は半信半疑でしたが、だんだんと神様は居る、という確信に導かれて、2年生の3月にプロテスタントのクリスチャンとして洗礼を受けました。教会やその他のキリスト教団体に顔を出すようになったことで、自分の世界も広がりをみせ、学校や日本人ソサエティ以外にも交友関係ができました。ヨーロッパで開かれていた集会でも日本人の知り合いや友人ができ、今でも交流が続いています。

 

さて、3年生の時、帰国することが前提の学生ビザだったので、そのつもりだったのですが、このコースのみでは学位がもらえないことが判明。日本に帰っても、かなり中途半端な感じです。ノルウェーでは、いまではバッチェラー(学士)になりましたが、当時は最初のグレードはカン・マグ(Candidatus magisterii、略してCand.mag)といって、カレッジでは4年でもらえる資格なのです。*3 そして、キリスト教の信仰をもってソーシャルワーカーとしてどう働いていくのか、というのも自分の中ではメイン・テーマとなっていきました。と、いうのも当時のクラスはかなり政治的にも左翼的な雰囲気で、博愛や慈善というヘルパーとなる人の根底に流れている(はずの)態度があまり感じられなかったのです。

こんな時、これも偶然だったのですが 「ディアコニア」というスペシャリティーの高い1年間のコースがあると耳にしました。ディアコニアとは、本来教会やキリスト教団体を基盤に行われる様々なケアの働きです*4 ソーシャル・ワークも元々は、キリスト教の精神がルーツになっていることもあり、関連性があります。そんなわけで、このコースに申し込み 1999年―2000年は新しい私立の学校、Diakonhjemmet(現VID)カレッジにお世話になりました。心配だったのは、学生ビザが更新できるかどうか、でした。学生ビザはひとつの科目のみに更新が許可されるからです。科目を変える場合は一度帰国して、自国から申請することになっていました。唯一、できそうな理由付けは ディアコニアのコースを取るためにはソーシャル系などのベースになる資格が要るということでした。なので、ディアコニアは全く新しい科目ではなく、ソーシャルワーク分野の専門的なコースだと主張したのです。

ただ、この時はめったにないことですが、UDIの担当者から電話が掛かってきて、私の滞在の目的は一体何なのかを聞かれました。その時、「もうビザの更新はこの年が最後ですから」とも言われました。

 

今度は本当に、来年帰国だわ…と、腹をくくったものの、次に判明したのは Diakon-kandidat(ディアコーン・キャンディデート)という資格の存在。実はこの資格を持って、ディアコーンとして正式に就任できる…というのがノルウェー国教会の規定にありました。もともと日本で働く場合はノルウェーの規定などはあまり関係なかったのですが、当時は何とか日本にあるノルウェーの宣教関係でお仕事をもらえたら…とも思っていたのでした。この資格を取るには「キリスト教基礎」という更に1年のコースが必要でした。ちょうど当時通っていた教会の団体が小さなカレッジを持っており、このコースに入学できたので、学生生活最後の年はこちらでお世話になりました。学生ビザはというと、許可は予想に反して下りたのですが、もしかしてUDIの担当者も「しょうがないなあ」という感じだったかもしれないですね。

 

「道は歩きながら形成されていく」(Veien blir til mens man går)

ということわざがノルウェー語にはあります。それは、初めに目的や目標がはっきりしていなくても、歩きながらだんだんと行く道が見えてくる…という、意味です。私のこの学生時代もしかり。リベンジのつもりのノルウェー留学から始まり、だんだんと自分の方向性がみえてきて、その時々に関心事であったテーマや希望を追っていき、最終的にはディアコーン・カンディデートという予想もしなかった展開を見せました。(もちろん、言葉が最初から理解できていたら、徐々に判明したというのもなかった気もしますが…)

今回のブログでお伝えしたいことの一つは、やはり嵐の後には青空が広がり、トンネルにも必ず出口があるということです。オスロで学生を始めてからは いろいろな方々に助けていただきながらも、最終的には孤独や不安といった自分との闘いでした。海外や新天地で暮らされている方々、または様々な事情があって、孤独の中に居る方々も もしかすると 私がした体験のように、ご自身との闘いを経験されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。ただ、このような状況の中ではどの選択が「正しい」とか「間違ってる」とか簡単に言えるものではないと思います。私は20年以上経った今、やはりトライしてきたことを後悔することはないのですが、仮に途中であきらめて日本に帰っていたとしても、また今とは違う人生があったはずです。(ただ、主人とは一緒になってなかったかも、と思うとやはりここに居た意味がありますね。)

さて、この後は、というと…。2001年の春、最後の学校の卒業を控えた5月ころ、「ダメ元でもいい、ノルウェーで働いた経験が欲しい」という思いがふつふつとわいてきました。次回ブログでは初めての就職活動から新しい生活の土地、西ノルウェー・カルモイでの経験を振り返ってみたいと思います。

 

長いブログになりましたが、読んでいただき、ありがとうございました。引き続きご自愛ください! 

*1:実はドイツなどと同様、ほとんどの公的な高等教育には政府からの援助があり、学生が払うのは「セメスター登録料」として半年およそ数千円だったのです。これは正規ビザがある留学生にも適用されるので、私も生活費のみで勉強できました。

*2:9月ころには個人のお宅を間借りすることができ、その後引っ越しして、2001年までは学生寮生活でした

*3:レマルクの学校はカウントされない

*4:ギリシャ語では「奉仕」という意味になっています。ディアコーンは「奉仕する人」。

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって…その1.貧乏留学生時代(前) 

みなさまこんばんは。お変わりなくお過ごしですか? 九州での大雨災害はこちらでも報道されています。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。コロナも東京を中心に第2波が心配されていますね。

こちらはFellesferieという、多くの人が一斉に夏休みを取る休暇期間に突入し、コロナの話題は下火になっています。ただ、テレワークの推奨などは続いており、この状態が新学期の8月中旬くらいまで続く模様…。

さて、このブログでは前回から「ノルウェー生活・満25周年記念」ということで自分の人生を振り返るトピックになっています。前回は留学までの経緯を綴ってみたのですが、今回はいよいよノルウェー生活のスタート。留学生として過ごした最初の年を振り返ってみたいと思っています。そもそも東京でOLをしていた私ですが、ノルウェー語を個人で教えてくださる先生に会い、そこから留学の話へと広がっていきました。実家からは援助も何もない、まったくの自費留学です。

 

レマルクの田舎で…

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Bø i Telemark

Telemark短期大学とVolda短期大学の二校から入学許可が下りた中で、選んだのはオスロから西に電車で2時間ほどの距離にある、Bø i Telemark *1。かなり田舎というのはHJ先生から聞いていたので、やはり首都にも簡単に行ける場所にしたというわけです。

当時、この街の人口は4000人ほど。そのうち短期大学の学生が1000人ほどなので、学生の街ではありますが、かなりこじんまりでした。(今はショッピングセンターもあり、もうちょっと開けています。)当時はメインストリートにスーパーが一件に金物屋さんや洋品店など。あとは夏のみオープンする「サマーランド」というアミューズメントパーク。この田舎さにはちょっとびっくりしたものの、カルチャーショックの記憶も特になかった気がします。食べるものはもちろん日本のようには簡単に安くおいしく手に入らないのですが、「こんなもんかあ」と納得していたのでした。

ノルウェー語と社会科のコースにはおよそ20人。アメリカ、ロシア、タンザニアなどから来ていて、なんと日本人がもう一人!私より2つくらい年下の女の子です。クラスはほとんどが交換留学生という構成でした。後からわかったことですが、このコースは本来、ノルウェーで大学や短大で進学が決まっていて それについていけるだけの語学や一般知識を学ぶカリキュラムになっていました。8月から始まって、次の年の6月までに急ピッチで学びます。次学期には論文と三つの試験があって、その合計点が成績となるのですが、ある点数以上を取れないと、その先には進めません。

私はもともと「1年ぽっきり」の予定で留学していたのですが、自腹を切って来ているので コースが終わる6月までには何とか「ものにできるノルウェー語を取得したい」というバリバリの意気込みで、もう一人の日本人留学生ともあえてつるんだりせず、遠くからお互いに応援するというスタンスを取りました。

そうこうしているうちに2か月ほどが経過。去年の卒業生で同じ学校に通っていたカンボジア人学生がクラスを訪ねてくれた際、「今のうちにノルウェー語に切り替えておかないと、絶対に後半は厳しくなる。他の学生たちは英語やドイツ語が母国語だから、その人たちと一緒にのんびりペースでやってたら余裕がなくなるよ。」とアドバイスをくれました。そう、まだまだクラスのなかは使い慣れた英語でコミュニケーションをとっていたのです。先生陣ではS先生だけが厳しく、「ほらほら、みんなノルウェー語よ」といつも言っていました。実は、このS先生、後にもとってもお世話になったのですが、先のカンボジア人学生やコースの他の卒業生にもとても親切にされ、慕われていました。せっかくアドバイスしてくれたし、ということで、一念発起。10月ころからはクラスの子たちに「変なの~」「どうしてわざわざ(できない)ノルウェー語でしゃべってるの?」とさんざん言われつつも オール・ノルウェー語に切り替え、新しい言葉を学ぶ苦労をふんだんに味うこととなりました…。*2

この年はこの他、中学生からファンだったノルウェーのバンド、A-haのヴォーカル、モートン・ハルケット(Morten Harket)の初ソロツアーがノルウェーで展開され、オスロも含めてトロンハイムやクリスチャンサンなどの都市へ「おっかけ」さながらライヴも体験。ボーで、ローズ・ペインティング*3の教室に通ったり。本当に1年ぽっきりと思っていたので、いろいろなことにトライしていたと思います。

 

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ローズ・ペインティングの教室にて

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Grivi studentheim 学生寮
転機となったのは、あるパンフレット

年が明けた1996年、私にも実は進学するチャンスがあるというのが判明。思いもしなかった、進学への道。もちろん、先に挙げた最終の成績をクリアーすることが大前提です。それを聞いてから、考える日が続きました。果たして、UDI(外国人管理局)が指定する生活費は十分あるのか、帰国を伸ばすことで日本での再就職はどうなるのか…?でもはっきりしていたのは、まだ帰りたくない、1年では足りない、もっとノルウェーに居たいということでした。ここから、学校調べなどが始まりました。この町の職安にはノルウェー国内の短大、大学のパンフレットや職業に関するパンフレットもあり、そこで目に留まったのが「ソーシャル・ワーカー」という職業。ノルウェーでは3つのタイプの資格があり、そのうちのSosionomという資格*4にとっても興味がわいたのです。

以前のブログにも書きましたが、こちらは短大・大学の入試はなく、書類審査のみ。高校以上の成績で審査されます。ノルウェーで高校に行っていない私などの外国人はというと、別枠での審査なのですが、そのため申請書提出期限も早く3月1日。かなり時間がない中での申請書作成となりました。ただ、まわりの先生や知人のノルウェー人の反応はというと「無理無理。入るのも難しいし、勉強だって難しくてついていけないよ」というものでした。唯一励ましてくれたのは、S先生。「やりたいなら、やってみたらいいわよ。」と言ってもらえました。

審査を一括して行う機関、S.O. (Samordnet opptak)には15コースまで申請できるのですが、Sosionomだけでも4、5校は申し込んだと思います。ほとんどがダメ元です。それ以外にもいろんな学校・コースで申請書を埋め尽くしました。

 

最終試験・コース卒業・そして夏…

春セメスターから10ページほどの論文に取り組み、それが終わるといよいよノルウェー語の筆記、口頭試験と社会科の試験です。社会科はノルウェーの歴史、文化や政治の仕組など。クラスにもさすがに緊張感が漂ってきました。ほとんどが奨学金をもらってきていた交換留学生とはいえ、成績が良くなければ、国に戻らなければなりません。私も良い成績ではなかったですが、なんとかクリアーでき、あとはS.Oからの次の学校への審査待ちです。試験期間が終わると、あっという間に卒業です。クラスの友人たちともお別れし、私はというと次の年からの生活費を稼ぐべく日本に2か月の里帰り(出稼ぎ)をしました。

この時代、携帯やスカイプなどもなく、家族への電話も公衆電話からしていたので、ノルウェーの短大で勉強を続けたい、という もろもろのことは実家へ戻ってから伝えたと思います。幸い、母からは「やりたいこと、やったらいい」と言ってもらえました。経済的に自立していたのもた要因の一つでしょうか。とにかく、母のポリシーに感謝しました。

さて、ノルウェーでの郵便物などはS先生にチェックをお願いしていたのですが、彼女からFAXで待ちに待ったS.O.からの返事が送られて来ました。なんと、第一希望だったリレハンメルのSosionomには入れず、なぜか第三希望のオスロに入学許可が下りたのです!

 

現実は厳かった…

本当は入学許可をもらえた時点で早くノルウェーに戻って、引っ越し準備やオスロでの住まいを探すべきでした。甘かったですね。8月にオスロ入りして学生寮を申し込もうと事務局にいったところ、「ウン百人」も寮の空き待ちだというのです。そこで、助け舟を出していただいたのが、お正月に日本大使館の賀詞交歓会で知り合った、オスロ在住のMさん。ノルウェー人のご主人と3人のお子さんがいるにもかかわらず、「うちにいらっしゃいよ」と住居が見つかるまでの間、寝る場所を提供してくださいました。しかもご主人にもボーからの引っ越しを手伝っていただいたり…。(今でも足を向けて寝られません…と、いうか、今は私が助け舟を出す立場だわ、と思っています。)

さて、Sosionomは3年のコースなのですが、滞在許可は1年ずつしか出ません。というのも、途中で落第して留年になったりすると次の年から許可は下りず、帰国を余儀なくされるという仕組みです。オスロでもMさんのご主人にノルウェー語を見ていただきながら、滞在許可申請書の提出です。さあ、Sosionomとは、職業を学ぶコースだし、日本とも行政の仕組みも法も違いますから、これでどうやって学生ビザを出してもらえるのか?なんせ、ノルウェーも他国同様、移住ストップがかかっているし、学生ビザも「卒業後は自国に戻って、ノルウェーで学んだ知識を活かす」ことが大前提で許可されるものなので…。

 

ここから、どうやって就職・労働ビザにつながったかというのは次回以降のブログにてお伝えしようかと思います。今振り返ると、やはりこのボーでの最初の一年は本当に自分にとって意味深い年でした。S先生をはじめ、たくさんの良い方にお世話になり、ノルウェーで暮らす外国人とも知り合い…。田舎だったから、(学生の街という特殊な文化もありますが)首都では味わえない体験ができたかもしれません。私がノルウェーにまだ居たい、と思ったのもこんな良い体験があったからですね…。

 

大雨、コロナ… 引き続き、ご自愛くださいませ。


 

*1:レマルク県のボー。ちなみに、Bøという地名は他の地方にもあるため、「テレマルク」を入れることが多いのです。テレマルクという名前はスキージャンプの「テレマルク姿勢」の由来にもなっています。

*2:HJ先生から日本で習っていたとはいえ、やっぱり最初は挨拶程度のレベルでした。

*3:ノルウェー独特な民芸

*4:資格は諸都市にある短期大学の3年コースで取れる。