ハンブルネスのひとりごと

ノルウェー在住のシステムズ・カウンセラーのブログです

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって…その1.貧乏留学生時代(後) 

こんばんは。マイ・ユニです。首都圏や大都市を中心に、コロナの第2波がいよいよ心配になってきましたね。私も毎日ネットでできるだけチェックを入れています。こちら、ノルウェーは15日からヨーロッパの一部の国を除き、入国制限が解除されました。こちらからもヨーロッパからも往来ができます。今は夏休みの真っただ中なので、交通機関も人は少ないのですが、1か月後がどうなるか。感染は広がるのか…が心配要素です。なにせ、ノルウェーはマスクの規定もいまだにないですから。

 

さて、今日は前回の続きで、留学生時代の後半です。1995年に一年の予定で留学しましたが、ノルウェーソーシャルワーカーを教育している地方短期大学(høgskole)に進むことができました。結局、そこを1999年に卒業後、プラス2年間の専門教育を受けることとなり、最終的に学生生活は6年に及びました*1

 

最悪なスタート

オスロのソーシャル・カレッジに入れたはいいものの、ホームレス状態で始まった1年目*2。そして、クラスはなんと90人の定員をはるかに超えた120人の学生たち。なんでも、この年の入学審査で間違いが生じ、30人余計に入学許可を出してしまったとのこと。(私もそこでまぎれた一人だったのかも…)

レマルクでは外国人クラスだったために、学校側もかなりいろいろお膳立てしてくれた環境でした。(と、いうのはオスロに来てからわかったのです!)ところが、ここでは一学生として ノルウェー人と一緒に勉強するわけですから、もちろん特別扱いや配慮もなく…。ですが、教科書をそろえるところから、右も左もわからずです。しかも、わからない単語がたくさんあって、目がまわるような毎日でした。そんな私を見て、他の生徒たちは「なんでここにいるの?」的に首をかしげていました。私が学生ビザで滞在している留学生とわかると、「ここで働けないのに、なんで好きこのんでこの勉強をしてるわけ?」と驚きの目で見られました。通常は就職するために 皆真剣に勉強しています。それで、わたしはまるで趣味でお勉強でもしているように見え、不可解に映ったのかもしれません。ただ、通常の会話にも苦労していたので、気の毒に思ったクラスメートも居たことでしょう。こんな時、やっぱり親切なのは同じ外国人。クラスには難民としてノルウェーに数年住んでいた外国人が数人いて、いろいろなことを聞いたり教えてもらっていたのでした。

 

人生最大のピンチ!

この秋はあらゆる面でこれまで味わったことがない、危機的状態でした。Mさんのように数人の日本人の知り合いは居たものの、毎日は本当に孤独な自分との闘いです。生活は学校と住まいの往復で、帰宅後は教科書と首っ引き。1ページ教科書を読むのに辞書を引き引き…1時間以上はかかっていました。クラスでもコミュニケーションがやっぱりうまく取れなくて、「ダメな自分」を毎日感じていました。日本では決して優等生ではありませんでしたが、だいたい中くらい。それがこの時は完璧に外れているのです。皆とあまりに違いすぎて、相手にもしてもらえない。この経験は、かなり衝撃で辛いものとなりました…。(でも、振り返ると貴重な意味のある経験です!)

クリスマスが近づくにつれ、「私ここでなにやってるんだろう」という思いばかり浮かんできました。はあ、去年は楽しかったのに…。今は本当にダメ人間で友達も居ない…。12月の中旬には試験が迫っていましたが、十分に勉強できていたわけではないので、落第する可能性大です。そこで、もし最初の試験にしくじったら、荷物をまとめて日本に帰ろう、と決めていました。

ところが…。本当に不思議なことですが、試験で出てきたのは前日教科書で丁度読んでいたところ、しかも私が一番よく理解できた部分だったのです! 結局、落第は免れました。そしてクリスマスの前の週にはUDI(外国人管理局)から学生ビザを許可するとの通知も届いたのです。

 

嵐の後の青空

初めての試験をクリアーできたことで、その後の私は以前より自信もつき、クラスの対人関係でも少しずつ積極的になっていきました。勉強の方も学術書を読みなれてくると、内容も理解でき、理解できると楽しく、より自信もついたと思います。2年目・3年目と経つにつれ、言葉のハンデはあったものの、なんとかクラスについていけるようになっていきました。ビザの方は最初の年が許可だったので、残りの2年は落第がない限り許可が下りるという状態でした。

生活の方も、毎夏 何とかノルウェーでのアルバイトを見つけて、規定の生活費はクリアーできました。ただ、それ以外は相変わらず勉強に時間がかかり、バイトはできなかったので、最小限のお金を生活費に充てていました。20年以上前ですが、家賃から何から入れての生活費は月4000クローネ(今のレートでは4万円ちょっと)くらいでした。そのころは日本から留学している同年代の友達も居たのですが、彼らの裕福さと私の貧乏さの差に目を見張りました。パーティーなどに繰り出して、楽しそうな彼女たちを横目に、私は貧乏と戦いながらほとんど勉強だけの毎日を送っていました。

 

クリスチャン + ソーシャルワーカー = ディアコーン

その後の私の進路を語るには、やはり信仰についても語らねばなりません。1年目の辛い辛い時期、クリスチャンだったMさんから聖書を読んだり、祈ることを勧められ、最初は半信半疑でしたが、だんだんと神様は居る、という確信に導かれて、2年生の3月にプロテスタントのクリスチャンとして洗礼を受けました。教会やその他のキリスト教団体に顔を出すようになったことで、自分の世界も広がりをみせ、学校や日本人ソサエティ以外にも交友関係ができました。ヨーロッパで開かれていた集会でも日本人の知り合いや友人ができ、今でも交流が続いています。

 

さて、3年生の時、帰国することが前提の学生ビザだったので、そのつもりだったのですが、このコースのみでは学位がもらえないことが判明。日本に帰っても、かなり中途半端な感じです。ノルウェーでは、いまではバッチェラー(学士)になりましたが、当時は最初のグレードはカン・マグ(Candidatus magisterii、略してCand.mag)といって、カレッジでは4年でもらえる資格なのです。*3 そして、キリスト教の信仰をもってソーシャルワーカーとしてどう働いていくのか、というのも自分の中ではメイン・テーマとなっていきました。と、いうのも当時のクラスはかなり政治的にも左翼的な雰囲気で、博愛や慈善というヘルパーとなる人の根底に流れている(はずの)態度があまり感じられなかったのです。

こんな時、これも偶然だったのですが 「ディアコニア」というスペシャリティーの高い1年間のコースがあると耳にしました。ディアコニアとは、本来教会やキリスト教団体を基盤に行われる様々なケアの働きです*4 ソーシャル・ワークも元々は、キリスト教の精神がルーツになっていることもあり、関連性があります。そんなわけで、このコースに申し込み 1999年―2000年は新しい私立の学校、Diakonhjemmet(現VID)カレッジにお世話になりました。心配だったのは、学生ビザが更新できるかどうか、でした。学生ビザはひとつの科目のみに更新が許可されるからです。科目を変える場合は一度帰国して、自国から申請することになっていました。唯一、できそうな理由付けは ディアコニアのコースを取るためにはソーシャル系などのベースになる資格が要るということでした。なので、ディアコニアは全く新しい科目ではなく、ソーシャルワーク分野の専門的なコースだと主張したのです。

ただ、この時はめったにないことですが、UDIの担当者から電話が掛かってきて、私の滞在の目的は一体何なのかを聞かれました。その時、「もうビザの更新はこの年が最後ですから」とも言われました。

 

今度は本当に、来年帰国だわ…と、腹をくくったものの、次に判明したのは Diakon-kandidat(ディアコーン・キャンディデート)という資格の存在。実はこの資格を持って、ディアコーンとして正式に就任できる…というのがノルウェー国教会の規定にありました。もともと日本で働く場合はノルウェーの規定などはあまり関係なかったのですが、当時は何とか日本にあるノルウェーの宣教関係でお仕事をもらえたら…とも思っていたのでした。この資格を取るには「キリスト教基礎」という更に1年のコースが必要でした。ちょうど当時通っていた教会の団体が小さなカレッジを持っており、このコースに入学できたので、学生生活最後の年はこちらでお世話になりました。学生ビザはというと、許可は予想に反して下りたのですが、もしかしてUDIの担当者も「しょうがないなあ」という感じだったかもしれないですね。

 

「道は歩きながら形成されていく」(Veien blir til mens man går)

ということわざがノルウェー語にはあります。それは、初めに目的や目標がはっきりしていなくても、歩きながらだんだんと行く道が見えてくる…という、意味です。私のこの学生時代もしかり。リベンジのつもりのノルウェー留学から始まり、だんだんと自分の方向性がみえてきて、その時々に関心事であったテーマや希望を追っていき、最終的にはディアコーン・カンディデートという予想もしなかった展開を見せました。(もちろん、言葉が最初から理解できていたら、徐々に判明したというのもなかった気もしますが…)

今回のブログでお伝えしたいことの一つは、やはり嵐の後には青空が広がり、トンネルにも必ず出口があるということです。オスロで学生を始めてからは いろいろな方々に助けていただきながらも、最終的には孤独や不安といった自分との闘いでした。海外や新天地で暮らされている方々、または様々な事情があって、孤独の中に居る方々も もしかすると 私がした体験のように、ご自身との闘いを経験されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。ただ、このような状況の中ではどの選択が「正しい」とか「間違ってる」とか簡単に言えるものではないと思います。私は20年以上経った今、やはりトライしてきたことを後悔することはないのですが、仮に途中であきらめて日本に帰っていたとしても、また今とは違う人生があったはずです。(ただ、主人とは一緒になってなかったかも、と思うとやはりここに居た意味がありますね。)

さて、この後は、というと…。2001年の春、最後の学校の卒業を控えた5月ころ、「ダメ元でもいい、ノルウェーで働いた経験が欲しい」という思いがふつふつとわいてきました。次回ブログでは初めての就職活動から新しい生活の土地、西ノルウェー・カルモイでの経験を振り返ってみたいと思います。

 

長いブログになりましたが、読んでいただき、ありがとうございました。引き続きご自愛ください! 

*1:実はドイツなどと同様、ほとんどの公的な高等教育には政府からの援助があり、学生が払うのは「セメスター登録料」として半年およそ数千円だったのです。これは正規ビザがある留学生にも適用されるので、私も生活費のみで勉強できました。

*2:9月ころには個人のお宅を間借りすることができ、その後引っ越しして、2001年までは学生寮生活でした

*3:レマルクの学校はカウントされない

*4:ギリシャ語では「奉仕」という意味になっています。ディアコーンは「奉仕する人」。