ハンブルネスのひとりごと

ノルウェー在住のシステムズ・カウンセラーのブログです

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって…その1.貧乏留学生時代(前) 

みなさまこんばんは。お変わりなくお過ごしですか? 九州での大雨災害はこちらでも報道されています。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。コロナも東京を中心に第2波が心配されていますね。

こちらはFellesferieという、多くの人が一斉に夏休みを取る休暇期間に突入し、コロナの話題は下火になっています。ただ、テレワークの推奨などは続いており、この状態が新学期の8月中旬くらいまで続く模様…。

さて、このブログでは前回から「ノルウェー生活・満25周年記念」ということで自分の人生を振り返るトピックになっています。前回は留学までの経緯を綴ってみたのですが、今回はいよいよノルウェー生活のスタート。留学生として過ごした最初の年を振り返ってみたいと思っています。そもそも東京でOLをしていた私ですが、ノルウェー語を個人で教えてくださる先生に会い、そこから留学の話へと広がっていきました。実家からは援助も何もない、まったくの自費留学です。

 

レマルクの田舎で…

f:id:Humbleness:20200707023655j:plain

Bø i Telemark

Telemark短期大学とVolda短期大学の二校から入学許可が下りた中で、選んだのはオスロから西に電車で2時間ほどの距離にある、Bø i Telemark *1。かなり田舎というのはHJ先生から聞いていたので、やはり首都にも簡単に行ける場所にしたというわけです。

当時、この街の人口は4000人ほど。そのうち短期大学の学生が1000人ほどなので、学生の街ではありますが、かなりこじんまりでした。(今はショッピングセンターもあり、もうちょっと開けています。)当時はメインストリートにスーパーが一件に金物屋さんや洋品店など。あとは夏のみオープンする「サマーランド」というアミューズメントパーク。この田舎さにはちょっとびっくりしたものの、カルチャーショックの記憶も特になかった気がします。食べるものはもちろん日本のようには簡単に安くおいしく手に入らないのですが、「こんなもんかあ」と納得していたのでした。

ノルウェー語と社会科のコースにはおよそ20人。アメリカ、ロシア、タンザニアなどから来ていて、なんと日本人がもう一人!私より2つくらい年下の女の子です。クラスはほとんどが交換留学生という構成でした。後からわかったことですが、このコースは本来、ノルウェーで大学や短大で進学が決まっていて それについていけるだけの語学や一般知識を学ぶカリキュラムになっていました。8月から始まって、次の年の6月までに急ピッチで学びます。次学期には論文と三つの試験があって、その合計点が成績となるのですが、ある点数以上を取れないと、その先には進めません。

私はもともと「1年ぽっきり」の予定で留学していたのですが、自腹を切って来ているので コースが終わる6月までには何とか「ものにできるノルウェー語を取得したい」というバリバリの意気込みで、もう一人の日本人留学生ともあえてつるんだりせず、遠くからお互いに応援するというスタンスを取りました。

そうこうしているうちに2か月ほどが経過。去年の卒業生で同じ学校に通っていたカンボジア人学生がクラスを訪ねてくれた際、「今のうちにノルウェー語に切り替えておかないと、絶対に後半は厳しくなる。他の学生たちは英語やドイツ語が母国語だから、その人たちと一緒にのんびりペースでやってたら余裕がなくなるよ。」とアドバイスをくれました。そう、まだまだクラスのなかは使い慣れた英語でコミュニケーションをとっていたのです。先生陣ではS先生だけが厳しく、「ほらほら、みんなノルウェー語よ」といつも言っていました。実は、このS先生、後にもとってもお世話になったのですが、先のカンボジア人学生やコースの他の卒業生にもとても親切にされ、慕われていました。せっかくアドバイスしてくれたし、ということで、一念発起。10月ころからはクラスの子たちに「変なの~」「どうしてわざわざ(できない)ノルウェー語でしゃべってるの?」とさんざん言われつつも オール・ノルウェー語に切り替え、新しい言葉を学ぶ苦労をふんだんに味うこととなりました…。*2

この年はこの他、中学生からファンだったノルウェーのバンド、A-haのヴォーカル、モートン・ハルケット(Morten Harket)の初ソロツアーがノルウェーで展開され、オスロも含めてトロンハイムやクリスチャンサンなどの都市へ「おっかけ」さながらライヴも体験。ボーで、ローズ・ペインティング*3の教室に通ったり。本当に1年ぽっきりと思っていたので、いろいろなことにトライしていたと思います。

 

f:id:Humbleness:20200707023550j:plain

ローズ・ペインティングの教室にて

f:id:Humbleness:20200707024048j:plain

Grivi studentheim 学生寮
転機となったのは、あるパンフレット

年が明けた1996年、私にも実は進学するチャンスがあるというのが判明。思いもしなかった、進学への道。もちろん、先に挙げた最終の成績をクリアーすることが大前提です。それを聞いてから、考える日が続きました。果たして、UDI(外国人管理局)が指定する生活費は十分あるのか、帰国を伸ばすことで日本での再就職はどうなるのか…?でもはっきりしていたのは、まだ帰りたくない、1年では足りない、もっとノルウェーに居たいということでした。ここから、学校調べなどが始まりました。この町の職安にはノルウェー国内の短大、大学のパンフレットや職業に関するパンフレットもあり、そこで目に留まったのが「ソーシャル・ワーカー」という職業。ノルウェーでは3つのタイプの資格があり、そのうちのSosionomという資格*4にとっても興味がわいたのです。

以前のブログにも書きましたが、こちらは短大・大学の入試はなく、書類審査のみ。高校以上の成績で審査されます。ノルウェーで高校に行っていない私などの外国人はというと、別枠での審査なのですが、そのため申請書提出期限も早く3月1日。かなり時間がない中での申請書作成となりました。ただ、まわりの先生や知人のノルウェー人の反応はというと「無理無理。入るのも難しいし、勉強だって難しくてついていけないよ」というものでした。唯一励ましてくれたのは、S先生。「やりたいなら、やってみたらいいわよ。」と言ってもらえました。

審査を一括して行う機関、S.O. (Samordnet opptak)には15コースまで申請できるのですが、Sosionomだけでも4、5校は申し込んだと思います。ほとんどがダメ元です。それ以外にもいろんな学校・コースで申請書を埋め尽くしました。

 

最終試験・コース卒業・そして夏…

春セメスターから10ページほどの論文に取り組み、それが終わるといよいよノルウェー語の筆記、口頭試験と社会科の試験です。社会科はノルウェーの歴史、文化や政治の仕組など。クラスにもさすがに緊張感が漂ってきました。ほとんどが奨学金をもらってきていた交換留学生とはいえ、成績が良くなければ、国に戻らなければなりません。私も良い成績ではなかったですが、なんとかクリアーでき、あとはS.Oからの次の学校への審査待ちです。試験期間が終わると、あっという間に卒業です。クラスの友人たちともお別れし、私はというと次の年からの生活費を稼ぐべく日本に2か月の里帰り(出稼ぎ)をしました。

この時代、携帯やスカイプなどもなく、家族への電話も公衆電話からしていたので、ノルウェーの短大で勉強を続けたい、という もろもろのことは実家へ戻ってから伝えたと思います。幸い、母からは「やりたいこと、やったらいい」と言ってもらえました。経済的に自立していたのもた要因の一つでしょうか。とにかく、母のポリシーに感謝しました。

さて、ノルウェーでの郵便物などはS先生にチェックをお願いしていたのですが、彼女からFAXで待ちに待ったS.O.からの返事が送られて来ました。なんと、第一希望だったリレハンメルのSosionomには入れず、なぜか第三希望のオスロに入学許可が下りたのです!

 

現実は厳かった…

本当は入学許可をもらえた時点で早くノルウェーに戻って、引っ越し準備やオスロでの住まいを探すべきでした。甘かったですね。8月にオスロ入りして学生寮を申し込もうと事務局にいったところ、「ウン百人」も寮の空き待ちだというのです。そこで、助け舟を出していただいたのが、お正月に日本大使館の賀詞交歓会で知り合った、オスロ在住のMさん。ノルウェー人のご主人と3人のお子さんがいるにもかかわらず、「うちにいらっしゃいよ」と住居が見つかるまでの間、寝る場所を提供してくださいました。しかもご主人にもボーからの引っ越しを手伝っていただいたり…。(今でも足を向けて寝られません…と、いうか、今は私が助け舟を出す立場だわ、と思っています。)

さて、Sosionomは3年のコースなのですが、滞在許可は1年ずつしか出ません。というのも、途中で落第して留年になったりすると次の年から許可は下りず、帰国を余儀なくされるという仕組みです。オスロでもMさんのご主人にノルウェー語を見ていただきながら、滞在許可申請書の提出です。さあ、Sosionomとは、職業を学ぶコースだし、日本とも行政の仕組みも法も違いますから、これでどうやって学生ビザを出してもらえるのか?なんせ、ノルウェーも他国同様、移住ストップがかかっているし、学生ビザも「卒業後は自国に戻って、ノルウェーで学んだ知識を活かす」ことが大前提で許可されるものなので…。

 

ここから、どうやって就職・労働ビザにつながったかというのは次回以降のブログにてお伝えしようかと思います。今振り返ると、やはりこのボーでの最初の一年は本当に自分にとって意味深い年でした。S先生をはじめ、たくさんの良い方にお世話になり、ノルウェーで暮らす外国人とも知り合い…。田舎だったから、(学生の街という特殊な文化もありますが)首都では味わえない体験ができたかもしれません。私がノルウェーにまだ居たい、と思ったのもこんな良い体験があったからですね…。

 

大雨、コロナ… 引き続き、ご自愛くださいませ。


 

*1:レマルク県のボー。ちなみに、Bøという地名は他の地方にもあるため、「テレマルク」を入れることが多いのです。テレマルクという名前はスキージャンプの「テレマルク姿勢」の由来にもなっています。

*2:HJ先生から日本で習っていたとはいえ、やっぱり最初は挨拶程度のレベルでした。

*3:ノルウェー独特な民芸

*4:資格は諸都市にある短期大学の3年コースで取れる。