ハンブルネスのひとりごと

ノルウェー在住のシステムズ・カウンセラーのブログです

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって… その2.カルモイのディアコーン時代(前)

こんばんは。いかがお過ごしでしょうか? 前回ブログから10日くらいの間に「日本、どうしちゃったの?」という動きになってきています。こちらでは、「日本人は強制的な政策が要らない 優秀な国民だ」という見方です。ノルウェーでも、スペインにバカンスに行ったのにあちらの感染状況が急に悪化したことで、急きょ帰ってこられた方々も居たようです。コロナ、世界的にまだまだ続きますね…。

独断・偏見の「独り言・ブログ」として書かせていただいています。今日はノルウェー生活が5年半経った、2001年。この年、私の人生がまた大きく進路を変えました。

前回の続きから:2001年春、学生として生活していたノルウェーをいよいよ離れ日本に戻るときが近づいて来ました。ところが、またしてもダメ元で、「働いてみたい、働いた経験が欲しい」という気持ちがふつふつと芽生え、行動に移すに至りました。これまでも夏のバイトなどの就活はしていましたが、フルタイムワークの就活は初めてです。仕事のオファーをいただいた後にワーキング・パーミット(就労ビザ)を申請するという順番です。

当時、学生ビザを取得後、5年間ノルウェーの外に出ていないと就労ビザはもらえないという規定がありました。それは、やはり第3か国からくる学生たちの多くがノルウェーに居残ることを望み、結局「ノルウェーで得た知識を自国に持ち帰る」、という学生ビザの主目的が阻まれるからだ…と、聞きました。ただ、就労ビザを持っていた人の中には「学生ビザから更新した」という人が居て、いわゆる「スキルド・ワーカー」*1 という種類のビザがあるというのを知りました。

 

ノルウェーで就労するということ

先のブログにも出てきたMさん。彼女は翻訳やコーディネーターを営む自営業でした。彼女は実は私がノルウェー語で職業コースを学ぶことも、その後にノルウェー人と肩を並べて働く、ということにも少し懐疑的でした。と、いうのも 「どうやって限界のある外国語で学んだことを、ノルウェー人同様に使いこなして、プロとして働けるのか」という考えだったからです。彼女には日本でソーシャルワークを学びなおすようにも勧められました。私はもともと、そこまで深くは考えておらず(根がおめでたいのでしょう。)考えていたのは1,2年先。ノルウェー社会にどっぷりつかるつもりで仕事を見つける、というよりは 勉強したことを実践しながら数年訓練させてもらいたい、という感じで仕事をしようと思っていました。Mさんは外国人がこの国で働いていく厳しさを体験されていたと思います。なので、親心からそう言ってくれたのでしょう。

その一方、「ヨーロッパキリスト者の集い」*2で会った同じ世代の人たちから、たいへんな刺激も受けていました。彼らは、「日本に帰るということだけが、唯一の選択ではない」「世界人として生きればいい」「日本人が海外で活かされる場がある」といった、かなりグローバルな感覚を持っていたのです。

 

就職活動

さて、求人はクリスチャン新聞、Vårt Landの求人欄から始まりました。毎週金曜に教会職員の求人が出ていたのです。最初に受けたのはオスロのある教会。面接までは行きましたが、やはり資格だけあっても、経験のなかった私はぺけでした。そして、ディアコーンの求人もかなり限られていたのです。もう、こうなったらノルウェー全国で就活するしかない、と出ている求人には手当たり次第応募し、しかも自分でも金曜の新聞に「日本人ディアコーン・カンディダート 職求む」と、いった広告も出しました。

この広告の後、カルモイの教会から電話が来ました。「うちの求人に是非応募しませんか」と。この電話のころ、別の応募してあった教会からもなんと、「書類審査であなたに採用が決まりました。」と返事が来たのです。面接もなしで、予想外です。この地域では面接なしで採用決定するのが普通らしく、私以外に求職者は居なかったとのこと。ところが、そこは、北ノルウェー、ロフォーテン諸島にある教会。行って皆さんにお会いして、どんな場所か確かめたい、と申し出ました。すべての事業主がそうではありませんが、たまに面接のための旅費などをカバーしてくれるところがあります。そのロフォーテンの教会も、「あなたが、こちらのオファーにOKした場合、旅費を出します」と言ってくれました。

一番安い手段を使い、トロンハイム経由でライネ、Regneに向かいました。ただ、Bodøからの船旅がとてもきつく、究極に船酔いして、大変なことになっていたのです。そんなこともあり、あちらでは「未来のうちのディアコーン」という感じで大歓迎していただいたのですが、気持ちは消沈。すこし考える時間をいただいて帰りました。

 

大・大・大失態

さて、そうこうしているうちに、カルモイからも面接の招待が来ました。こちらは、ロガランドという県にありますが、この地方には 東北ご出身のMご一家が住んでいます。このご一家とはオスロのMさんを通じて知り合ったのですが、日本に帰らなかった年末年始の休みに数回 よらせていただいたりして、大変お世話になっていたご家族です。しかも、奥さんがまるで実家に帰ってきたような味の日本食(北海道出身ですが、ルーツは福島・秋田・新潟です)を作ってくださることもあり、本当にMご一家での滞在は、心の芯から癒された時間でした。カルモイへの面接も、Mご一家のお宅に数日泊まらせていただきながらでした。

さて、面接当日。ロガランドはかなり方言が強いことで知られている地域でもありますが、面接場所への行き方の指示をすっかり聞き違え、所定のフェリーに乗れず、ほとんど半日遅れで到着するという あってはならない大失態をしてしまったのです。先方は、面接に呼ばれていた全員を半日観光にご招待してくださっていたのですが、私が着いた午後には他の皆さんは観光も面接も終わり、帰ってしまわれていたのです。半分半べそ状態の私だったのですが、みなさんになぐさめられて、やっと面接終了…。当時ディアコーンだったOさんともいろいろお話しをさせてもらい、なんとも申し訳ないやら、恥ずかしいやら、もうおそらく皆さんとは2度とお会いすることはないと思い、深々とお礼をしてMご一家のお宅に戻ったのでした。

ノルウェーの面接では通常「Referanse」といって求職者の働きぶりやどんな人物かを問い合わせる人物の提示を求められます。この時、行っていた教会の牧師先生にこの役目をお願いしてありました。

次の日、誰も予想していなかった驚きの事態が発生しました。時間はまだ午前10時台。カルモイからの電話で私に採用決定したというお知らせが来たのです。今でも思い出すと、ちょっと震えてしまう感じですが、「こんなことってある?」と、しばらく放心状態でした…。昨日の失態と言い…。ただ、Referanseの牧師先生がかなり私のことをポジティヴに話してくれ、しかも事務所長と共通の知り合いがいた、ということも功を奏したのでしょうか。(世間は狭し…。ノルウェーだからですかね?)

 

難しい選択

私の個人的、クリスチャン的な思いは、「神様に導かれたところで働かせてもらいたい」でした。どこが、神様の「みこころ」(クリスチャン用語で神様のお考えという意味)なのか???客観的にみると、他に応募者が居なかった(かわいそうな)北ノルウェーのライネなのではないか、と思うのですが、そこを選ぶことが本当に正しいか確信がなかったので、悩みました。当時の学校の先生に相談の結果、「その二か所の中で自分が行きたいところはどこか?」という質問に、かっこつけずに ありのままの自分の正直な答えは カルモイでした。(後日談ですが、お断りしたロフォーテンではお会いした事務所長の方がディアコーンの教育を後に進んで受けられ、ご自分が就任された、というのを聞き、私が断って良かった、と思ったのでした。その方の方が適材適所だったと思います。)

次の大きな課題はまたしても ビザ。先方にも労働許可が要るということは正直に話していて、許可が出るまでの間、「ボランティア」として教会に関りたいというのを申し出ました。でも、どのくらい時間がかかるかも全く分からない状態でよく採用してくれたと、また不思議な感覚です。

冒頭にも書きましたが、私が狙っていたのは労働許可の中でも「トレイニ―ビザ」。最長2年で降りる許可です。これまでもUDIに「許可は出しません」などと言われてきただけに、しっかりしたアピールが申請書で必要でした。

 

オスロにさようなら

8月。2年間住んでいたDiakonhjemmetの学生寮も引き上げの手続きをし、荷物をまとめます。引っ越しのトラックはカルモイの方が頼んでくれ、住居もあちらに見つけていただきました。さて、あとは私が引っ越すだけです。当時していた夏のバイトはマルチ・ハンディキャップを抱えるユースのケアだったのですが、そこも7月いっぱいで終わり。ビザがないと就労できないので、次にいつ収入があるか、わかりません。数人の友人に見送ってもらい、5年間住んだオスロを離れます。カルモイでは誰も知り合いも居ませんでしたが、Mご一家が同じ県にいると思うと勇気づけられました。

 

カルモイ

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私が働くこととなった二つの教会はカルモイの南部にありました。大体一年目に住んだボーくらいの、4000人規模の町に住むことになりました。見つけていただいていた住居には私の引っ越し荷物が運ばれていました。ところが、ここは町から2キロ離れた「ひっそり」と立つ一軒家(の2階)。すぐそばに入江があって、教会も近くです。とっても素敵な場所なのですが、9月ころになると外は真っ暗になり、鳥や動物(羊)の声が響き渡ります。実は、私、暗いところがちょっと苦手なのです。うちにもびくびくしながら帰り、うちの中でも外が真っ暗なので落ち着きません。いろいろ悩んだ末、同僚に話してみると、街の方にアパートが一件空いているという情報をゲットしてくれ、彼がいろいろ大家さんなどに話を付けてくれ、「是非、引っ越してきてくださいよ」ということになりました。この時、収入もいつ入るかわからない私に、デポジット(敷金)なしで貸してくれるとは…。しかも、収入が入るまで割引もしてくれるという、なんて良い方々なんでしょう!

オスロは小さくても首都ですので、いろいろな人が集まっています。一方、カルモイはほとんどが地元の方々。当然ですが、文化・伝統にも誇りをもたれ、この辺ではオスロのある「東ノルウェー」とはかなり違い、なぜかここでカルチャーショックがたくさんありました。これについては次回ブログで紹介したいと思います。

さて、私の教会の奉仕がボランティアの形で始まりました。ボランティアの一つのいい点は、自分の好きな時間で働けるということ。でも、とりあえず職場にスムーズになれるように、スタッフの会議、役員会会議、各委員会の会議などには参加。重要なのは皆さんと知り合い、皆さんにも私がどんな人かを知ってもらう、ということです。信頼関係が成り立たないとできない仕事です。「日本人」ということで、教会報などにもバックグランドについてインタビューを受けたりしました。小さい町なので、教会にはあまり来ない方も私が誰か、というのは大体わかっていたでしょう。

この時期、教会の裏手にも難民キャンプがあり、そこにもボランティアとして訪問の活動をお手伝いしていました。それから、街にあるボランティアセンター(Frivillighetssentralen)にも顔を出しては、所長さんにいろいろな方に紹介していただきました。ここは、昼間はカフェ、夜はスペイン語教室やダンス教室と様々な活動があり、暇だった私にはありがたい場所となりました。

どんな場所かは、Visit-Kamøyでご参照ください。 

www.google.no

 

就労ビザ

さて、9月の国政選挙で「保守党」(Høyre)が躍進し、政権をとりました。保守党が訴えた政策の一つが、人手不足の解消。実はこの時期、スキルド・ワーカーが足りない事態だったのです。なので、これまで学生ビザで、ノルウェーで学んでノルウェ語をマスターしている外国人に就労ビザのチャンスを与えようと積極的に動いていたのです。実際、10月ころには先述の「5年間の国外待機の規定」を、スキルド・ワーカーと認定される人に限り除外するという新しい法律ができました。

暇があれば図書館などでUDI関係をチェックしていた私ですが、このニュースを見て早速 当時ヘルプしていただいていた団体、SEIF*3 に確認を取ると、「私にも適用されると思う」との答え。なんてタイミングでしょうか!そこで、UDIに一筆書き、SEIF経由で送りました。

そして…10月末。待ちに待った就労ビザが下りました!(2か月半くらいの審査機関はかなり短いと言えます。)しかも…いただいたのは、「トレイニ―」ではなく、「スキルド・ワーカー」のビザでした。このビザは毎年更新できて、3年後に永住許可を申請できるビザです。カルモイにある警察署がUDIの窓口になっていますが、こちらは皆さんニコニコ親切。許可が下りてよかった、ウェルカムと言ってもらっているような感じです。さすがに、涙がでました。

と、同時に本格的にいよいよディアコーンとしての働きがスタートです。

 

次回の後編では、仕事ではどんなことをしていたのか、様々なチャレンジ、外人であることのハンデやカルモイでの生活などなど… を、ご紹介したいと思います。

世界中で第2波が来ているコロナの状況、ワクチンの開発など 祈りつつ。長文、お読みいただきありがとうございました。

 

*1:ノルウェー人、またはヨーロッパ経済機構内の国籍の求職者が居なく、それ以外の国籍の人を雇う理由がある場合。雇い主より書面で証明してもらい、許可される就労ビザ。ただし、その分野の高等教育を受けて特殊資格・技能を持つものに限る。

*2:ヨーロッパの国々にある日本語教会やフェローシップが有志で開いている年一回の集会。興味のある方はこちら:https://www.europetsudoi.net/

*3:Selvhjelp for innvandrere og flyktninger

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって…その1.貧乏留学生時代(後) 

こんばんは。マイ・ユニです。首都圏や大都市を中心に、コロナの第2波がいよいよ心配になってきましたね。私も毎日ネットでできるだけチェックを入れています。こちら、ノルウェーは15日からヨーロッパの一部の国を除き、入国制限が解除されました。こちらからもヨーロッパからも往来ができます。今は夏休みの真っただ中なので、交通機関も人は少ないのですが、1か月後がどうなるか。感染は広がるのか…が心配要素です。なにせ、ノルウェーはマスクの規定もいまだにないですから。

 

さて、今日は前回の続きで、留学生時代の後半です。1995年に一年の予定で留学しましたが、ノルウェーソーシャルワーカーを教育している地方短期大学(høgskole)に進むことができました。結局、そこを1999年に卒業後、プラス2年間の専門教育を受けることとなり、最終的に学生生活は6年に及びました*1

 

最悪なスタート

オスロのソーシャル・カレッジに入れたはいいものの、ホームレス状態で始まった1年目*2。そして、クラスはなんと90人の定員をはるかに超えた120人の学生たち。なんでも、この年の入学審査で間違いが生じ、30人余計に入学許可を出してしまったとのこと。(私もそこでまぎれた一人だったのかも…)

レマルクでは外国人クラスだったために、学校側もかなりいろいろお膳立てしてくれた環境でした。(と、いうのはオスロに来てからわかったのです!)ところが、ここでは一学生として ノルウェー人と一緒に勉強するわけですから、もちろん特別扱いや配慮もなく…。ですが、教科書をそろえるところから、右も左もわからずです。しかも、わからない単語がたくさんあって、目がまわるような毎日でした。そんな私を見て、他の生徒たちは「なんでここにいるの?」的に首をかしげていました。私が学生ビザで滞在している留学生とわかると、「ここで働けないのに、なんで好きこのんでこの勉強をしてるわけ?」と驚きの目で見られました。通常は就職するために 皆真剣に勉強しています。それで、わたしはまるで趣味でお勉強でもしているように見え、不可解に映ったのかもしれません。ただ、通常の会話にも苦労していたので、気の毒に思ったクラスメートも居たことでしょう。こんな時、やっぱり親切なのは同じ外国人。クラスには難民としてノルウェーに数年住んでいた外国人が数人いて、いろいろなことを聞いたり教えてもらっていたのでした。

 

人生最大のピンチ!

この秋はあらゆる面でこれまで味わったことがない、危機的状態でした。Mさんのように数人の日本人の知り合いは居たものの、毎日は本当に孤独な自分との闘いです。生活は学校と住まいの往復で、帰宅後は教科書と首っ引き。1ページ教科書を読むのに辞書を引き引き…1時間以上はかかっていました。クラスでもコミュニケーションがやっぱりうまく取れなくて、「ダメな自分」を毎日感じていました。日本では決して優等生ではありませんでしたが、だいたい中くらい。それがこの時は完璧に外れているのです。皆とあまりに違いすぎて、相手にもしてもらえない。この経験は、かなり衝撃で辛いものとなりました…。(でも、振り返ると貴重な意味のある経験です!)

クリスマスが近づくにつれ、「私ここでなにやってるんだろう」という思いばかり浮かんできました。はあ、去年は楽しかったのに…。今は本当にダメ人間で友達も居ない…。12月の中旬には試験が迫っていましたが、十分に勉強できていたわけではないので、落第する可能性大です。そこで、もし最初の試験にしくじったら、荷物をまとめて日本に帰ろう、と決めていました。

ところが…。本当に不思議なことですが、試験で出てきたのは前日教科書で丁度読んでいたところ、しかも私が一番よく理解できた部分だったのです! 結局、落第は免れました。そしてクリスマスの前の週にはUDI(外国人管理局)から学生ビザを許可するとの通知も届いたのです。

 

嵐の後の青空

初めての試験をクリアーできたことで、その後の私は以前より自信もつき、クラスの対人関係でも少しずつ積極的になっていきました。勉強の方も学術書を読みなれてくると、内容も理解でき、理解できると楽しく、より自信もついたと思います。2年目・3年目と経つにつれ、言葉のハンデはあったものの、なんとかクラスについていけるようになっていきました。ビザの方は最初の年が許可だったので、残りの2年は落第がない限り許可が下りるという状態でした。

生活の方も、毎夏 何とかノルウェーでのアルバイトを見つけて、規定の生活費はクリアーできました。ただ、それ以外は相変わらず勉強に時間がかかり、バイトはできなかったので、最小限のお金を生活費に充てていました。20年以上前ですが、家賃から何から入れての生活費は月4000クローネ(今のレートでは4万円ちょっと)くらいでした。そのころは日本から留学している同年代の友達も居たのですが、彼らの裕福さと私の貧乏さの差に目を見張りました。パーティーなどに繰り出して、楽しそうな彼女たちを横目に、私は貧乏と戦いながらほとんど勉強だけの毎日を送っていました。

 

クリスチャン + ソーシャルワーカー = ディアコーン

その後の私の進路を語るには、やはり信仰についても語らねばなりません。1年目の辛い辛い時期、クリスチャンだったMさんから聖書を読んだり、祈ることを勧められ、最初は半信半疑でしたが、だんだんと神様は居る、という確信に導かれて、2年生の3月にプロテスタントのクリスチャンとして洗礼を受けました。教会やその他のキリスト教団体に顔を出すようになったことで、自分の世界も広がりをみせ、学校や日本人ソサエティ以外にも交友関係ができました。ヨーロッパで開かれていた集会でも日本人の知り合いや友人ができ、今でも交流が続いています。

 

さて、3年生の時、帰国することが前提の学生ビザだったので、そのつもりだったのですが、このコースのみでは学位がもらえないことが判明。日本に帰っても、かなり中途半端な感じです。ノルウェーでは、いまではバッチェラー(学士)になりましたが、当時は最初のグレードはカン・マグ(Candidatus magisterii、略してCand.mag)といって、カレッジでは4年でもらえる資格なのです。*3 そして、キリスト教の信仰をもってソーシャルワーカーとしてどう働いていくのか、というのも自分の中ではメイン・テーマとなっていきました。と、いうのも当時のクラスはかなり政治的にも左翼的な雰囲気で、博愛や慈善というヘルパーとなる人の根底に流れている(はずの)態度があまり感じられなかったのです。

こんな時、これも偶然だったのですが 「ディアコニア」というスペシャリティーの高い1年間のコースがあると耳にしました。ディアコニアとは、本来教会やキリスト教団体を基盤に行われる様々なケアの働きです*4 ソーシャル・ワークも元々は、キリスト教の精神がルーツになっていることもあり、関連性があります。そんなわけで、このコースに申し込み 1999年―2000年は新しい私立の学校、Diakonhjemmet(現VID)カレッジにお世話になりました。心配だったのは、学生ビザが更新できるかどうか、でした。学生ビザはひとつの科目のみに更新が許可されるからです。科目を変える場合は一度帰国して、自国から申請することになっていました。唯一、できそうな理由付けは ディアコニアのコースを取るためにはソーシャル系などのベースになる資格が要るということでした。なので、ディアコニアは全く新しい科目ではなく、ソーシャルワーク分野の専門的なコースだと主張したのです。

ただ、この時はめったにないことですが、UDIの担当者から電話が掛かってきて、私の滞在の目的は一体何なのかを聞かれました。その時、「もうビザの更新はこの年が最後ですから」とも言われました。

 

今度は本当に、来年帰国だわ…と、腹をくくったものの、次に判明したのは Diakon-kandidat(ディアコーン・キャンディデート)という資格の存在。実はこの資格を持って、ディアコーンとして正式に就任できる…というのがノルウェー国教会の規定にありました。もともと日本で働く場合はノルウェーの規定などはあまり関係なかったのですが、当時は何とか日本にあるノルウェーの宣教関係でお仕事をもらえたら…とも思っていたのでした。この資格を取るには「キリスト教基礎」という更に1年のコースが必要でした。ちょうど当時通っていた教会の団体が小さなカレッジを持っており、このコースに入学できたので、学生生活最後の年はこちらでお世話になりました。学生ビザはというと、許可は予想に反して下りたのですが、もしかしてUDIの担当者も「しょうがないなあ」という感じだったかもしれないですね。

 

「道は歩きながら形成されていく」(Veien blir til mens man går)

ということわざがノルウェー語にはあります。それは、初めに目的や目標がはっきりしていなくても、歩きながらだんだんと行く道が見えてくる…という、意味です。私のこの学生時代もしかり。リベンジのつもりのノルウェー留学から始まり、だんだんと自分の方向性がみえてきて、その時々に関心事であったテーマや希望を追っていき、最終的にはディアコーン・カンディデートという予想もしなかった展開を見せました。(もちろん、言葉が最初から理解できていたら、徐々に判明したというのもなかった気もしますが…)

今回のブログでお伝えしたいことの一つは、やはり嵐の後には青空が広がり、トンネルにも必ず出口があるということです。オスロで学生を始めてからは いろいろな方々に助けていただきながらも、最終的には孤独や不安といった自分との闘いでした。海外や新天地で暮らされている方々、または様々な事情があって、孤独の中に居る方々も もしかすると 私がした体験のように、ご自身との闘いを経験されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。ただ、このような状況の中ではどの選択が「正しい」とか「間違ってる」とか簡単に言えるものではないと思います。私は20年以上経った今、やはりトライしてきたことを後悔することはないのですが、仮に途中であきらめて日本に帰っていたとしても、また今とは違う人生があったはずです。(ただ、主人とは一緒になってなかったかも、と思うとやはりここに居た意味がありますね。)

さて、この後は、というと…。2001年の春、最後の学校の卒業を控えた5月ころ、「ダメ元でもいい、ノルウェーで働いた経験が欲しい」という思いがふつふつとわいてきました。次回ブログでは初めての就職活動から新しい生活の土地、西ノルウェー・カルモイでの経験を振り返ってみたいと思います。

 

長いブログになりましたが、読んでいただき、ありがとうございました。引き続きご自愛ください! 

*1:実はドイツなどと同様、ほとんどの公的な高等教育には政府からの援助があり、学生が払うのは「セメスター登録料」として半年およそ数千円だったのです。これは正規ビザがある留学生にも適用されるので、私も生活費のみで勉強できました。

*2:9月ころには個人のお宅を間借りすることができ、その後引っ越しして、2001年までは学生寮生活でした

*3:レマルクの学校はカウントされない

*4:ギリシャ語では「奉仕」という意味になっています。ディアコーンは「奉仕する人」。

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって…その1.貧乏留学生時代(前) 

みなさまこんばんは。お変わりなくお過ごしですか? 九州での大雨災害はこちらでも報道されています。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。コロナも東京を中心に第2波が心配されていますね。

こちらはFellesferieという、多くの人が一斉に夏休みを取る休暇期間に突入し、コロナの話題は下火になっています。ただ、テレワークの推奨などは続いており、この状態が新学期の8月中旬くらいまで続く模様…。

さて、このブログでは前回から「ノルウェー生活・満25周年記念」ということで自分の人生を振り返るトピックになっています。前回は留学までの経緯を綴ってみたのですが、今回はいよいよノルウェー生活のスタート。留学生として過ごした最初の年を振り返ってみたいと思っています。そもそも東京でOLをしていた私ですが、ノルウェー語を個人で教えてくださる先生に会い、そこから留学の話へと広がっていきました。実家からは援助も何もない、まったくの自費留学です。

 

レマルクの田舎で…

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Bø i Telemark

Telemark短期大学とVolda短期大学の二校から入学許可が下りた中で、選んだのはオスロから西に電車で2時間ほどの距離にある、Bø i Telemark *1。かなり田舎というのはHJ先生から聞いていたので、やはり首都にも簡単に行ける場所にしたというわけです。

当時、この街の人口は4000人ほど。そのうち短期大学の学生が1000人ほどなので、学生の街ではありますが、かなりこじんまりでした。(今はショッピングセンターもあり、もうちょっと開けています。)当時はメインストリートにスーパーが一件に金物屋さんや洋品店など。あとは夏のみオープンする「サマーランド」というアミューズメントパーク。この田舎さにはちょっとびっくりしたものの、カルチャーショックの記憶も特になかった気がします。食べるものはもちろん日本のようには簡単に安くおいしく手に入らないのですが、「こんなもんかあ」と納得していたのでした。

ノルウェー語と社会科のコースにはおよそ20人。アメリカ、ロシア、タンザニアなどから来ていて、なんと日本人がもう一人!私より2つくらい年下の女の子です。クラスはほとんどが交換留学生という構成でした。後からわかったことですが、このコースは本来、ノルウェーで大学や短大で進学が決まっていて それについていけるだけの語学や一般知識を学ぶカリキュラムになっていました。8月から始まって、次の年の6月までに急ピッチで学びます。次学期には論文と三つの試験があって、その合計点が成績となるのですが、ある点数以上を取れないと、その先には進めません。

私はもともと「1年ぽっきり」の予定で留学していたのですが、自腹を切って来ているので コースが終わる6月までには何とか「ものにできるノルウェー語を取得したい」というバリバリの意気込みで、もう一人の日本人留学生ともあえてつるんだりせず、遠くからお互いに応援するというスタンスを取りました。

そうこうしているうちに2か月ほどが経過。去年の卒業生で同じ学校に通っていたカンボジア人学生がクラスを訪ねてくれた際、「今のうちにノルウェー語に切り替えておかないと、絶対に後半は厳しくなる。他の学生たちは英語やドイツ語が母国語だから、その人たちと一緒にのんびりペースでやってたら余裕がなくなるよ。」とアドバイスをくれました。そう、まだまだクラスのなかは使い慣れた英語でコミュニケーションをとっていたのです。先生陣ではS先生だけが厳しく、「ほらほら、みんなノルウェー語よ」といつも言っていました。実は、このS先生、後にもとってもお世話になったのですが、先のカンボジア人学生やコースの他の卒業生にもとても親切にされ、慕われていました。せっかくアドバイスしてくれたし、ということで、一念発起。10月ころからはクラスの子たちに「変なの~」「どうしてわざわざ(できない)ノルウェー語でしゃべってるの?」とさんざん言われつつも オール・ノルウェー語に切り替え、新しい言葉を学ぶ苦労をふんだんに味うこととなりました…。*2

この年はこの他、中学生からファンだったノルウェーのバンド、A-haのヴォーカル、モートン・ハルケット(Morten Harket)の初ソロツアーがノルウェーで展開され、オスロも含めてトロンハイムやクリスチャンサンなどの都市へ「おっかけ」さながらライヴも体験。ボーで、ローズ・ペインティング*3の教室に通ったり。本当に1年ぽっきりと思っていたので、いろいろなことにトライしていたと思います。

 

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ローズ・ペインティングの教室にて

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Grivi studentheim 学生寮
転機となったのは、あるパンフレット

年が明けた1996年、私にも実は進学するチャンスがあるというのが判明。思いもしなかった、進学への道。もちろん、先に挙げた最終の成績をクリアーすることが大前提です。それを聞いてから、考える日が続きました。果たして、UDI(外国人管理局)が指定する生活費は十分あるのか、帰国を伸ばすことで日本での再就職はどうなるのか…?でもはっきりしていたのは、まだ帰りたくない、1年では足りない、もっとノルウェーに居たいということでした。ここから、学校調べなどが始まりました。この町の職安にはノルウェー国内の短大、大学のパンフレットや職業に関するパンフレットもあり、そこで目に留まったのが「ソーシャル・ワーカー」という職業。ノルウェーでは3つのタイプの資格があり、そのうちのSosionomという資格*4にとっても興味がわいたのです。

以前のブログにも書きましたが、こちらは短大・大学の入試はなく、書類審査のみ。高校以上の成績で審査されます。ノルウェーで高校に行っていない私などの外国人はというと、別枠での審査なのですが、そのため申請書提出期限も早く3月1日。かなり時間がない中での申請書作成となりました。ただ、まわりの先生や知人のノルウェー人の反応はというと「無理無理。入るのも難しいし、勉強だって難しくてついていけないよ」というものでした。唯一励ましてくれたのは、S先生。「やりたいなら、やってみたらいいわよ。」と言ってもらえました。

審査を一括して行う機関、S.O. (Samordnet opptak)には15コースまで申請できるのですが、Sosionomだけでも4、5校は申し込んだと思います。ほとんどがダメ元です。それ以外にもいろんな学校・コースで申請書を埋め尽くしました。

 

最終試験・コース卒業・そして夏…

春セメスターから10ページほどの論文に取り組み、それが終わるといよいよノルウェー語の筆記、口頭試験と社会科の試験です。社会科はノルウェーの歴史、文化や政治の仕組など。クラスにもさすがに緊張感が漂ってきました。ほとんどが奨学金をもらってきていた交換留学生とはいえ、成績が良くなければ、国に戻らなければなりません。私も良い成績ではなかったですが、なんとかクリアーでき、あとはS.Oからの次の学校への審査待ちです。試験期間が終わると、あっという間に卒業です。クラスの友人たちともお別れし、私はというと次の年からの生活費を稼ぐべく日本に2か月の里帰り(出稼ぎ)をしました。

この時代、携帯やスカイプなどもなく、家族への電話も公衆電話からしていたので、ノルウェーの短大で勉強を続けたい、という もろもろのことは実家へ戻ってから伝えたと思います。幸い、母からは「やりたいこと、やったらいい」と言ってもらえました。経済的に自立していたのもた要因の一つでしょうか。とにかく、母のポリシーに感謝しました。

さて、ノルウェーでの郵便物などはS先生にチェックをお願いしていたのですが、彼女からFAXで待ちに待ったS.O.からの返事が送られて来ました。なんと、第一希望だったリレハンメルのSosionomには入れず、なぜか第三希望のオスロに入学許可が下りたのです!

 

現実は厳かった…

本当は入学許可をもらえた時点で早くノルウェーに戻って、引っ越し準備やオスロでの住まいを探すべきでした。甘かったですね。8月にオスロ入りして学生寮を申し込もうと事務局にいったところ、「ウン百人」も寮の空き待ちだというのです。そこで、助け舟を出していただいたのが、お正月に日本大使館の賀詞交歓会で知り合った、オスロ在住のMさん。ノルウェー人のご主人と3人のお子さんがいるにもかかわらず、「うちにいらっしゃいよ」と住居が見つかるまでの間、寝る場所を提供してくださいました。しかもご主人にもボーからの引っ越しを手伝っていただいたり…。(今でも足を向けて寝られません…と、いうか、今は私が助け舟を出す立場だわ、と思っています。)

さて、Sosionomは3年のコースなのですが、滞在許可は1年ずつしか出ません。というのも、途中で落第して留年になったりすると次の年から許可は下りず、帰国を余儀なくされるという仕組みです。オスロでもMさんのご主人にノルウェー語を見ていただきながら、滞在許可申請書の提出です。さあ、Sosionomとは、職業を学ぶコースだし、日本とも行政の仕組みも法も違いますから、これでどうやって学生ビザを出してもらえるのか?なんせ、ノルウェーも他国同様、移住ストップがかかっているし、学生ビザも「卒業後は自国に戻って、ノルウェーで学んだ知識を活かす」ことが大前提で許可されるものなので…。

 

ここから、どうやって就職・労働ビザにつながったかというのは次回以降のブログにてお伝えしようかと思います。今振り返ると、やはりこのボーでの最初の一年は本当に自分にとって意味深い年でした。S先生をはじめ、たくさんの良い方にお世話になり、ノルウェーで暮らす外国人とも知り合い…。田舎だったから、(学生の街という特殊な文化もありますが)首都では味わえない体験ができたかもしれません。私がノルウェーにまだ居たい、と思ったのもこんな良い体験があったからですね…。

 

大雨、コロナ… 引き続き、ご自愛くださいませ。


 

*1:レマルク県のボー。ちなみに、Bøという地名は他の地方にもあるため、「テレマルク」を入れることが多いのです。テレマルクという名前はスキージャンプの「テレマルク姿勢」の由来にもなっています。

*2:HJ先生から日本で習っていたとはいえ、やっぱり最初は挨拶程度のレベルでした。

*3:ノルウェー独特な民芸

*4:資格は諸都市にある短期大学の3年コースで取れる。

"Mine 25 år i Norge" ノルウェー生活25年を振りかえって、その0.留学準備期間 

みなさん、こんにちは。お元気でしょうか?

この国にやってきてから8月でなんと丸25年になります。四半世紀・・・そして日本よりもこちらの生活の方がちょっとだけ長くなりました。たびたび、「これから留学したいのですが」とか「ノルウェーで就職したいのですが」という方々からご連絡をいただいていて、私の経験も「賞味期限切れ」になっている気もしている今日この頃。ただ、もしかすると海外でサバイバルしてきた基本的な経験は「ひとつの体験談」として何かしらの参考にしていただけるのではないか、と思い始めております。それと、正直なところこのブログに残すのも自分にとっても面白いかもしれません。そこでこの夏は「ノルウェー生活・満25周年記念」ということでシリーズにしてみたいと思っています。第一回目の今日は、「その0.留学準備期間」です。

 

某商社でのOL時代

以前のブログでも書きましたが、うちは母子家庭。高校を卒業してから四年制大学には進まず、都内の某英語ビジネス系専門学校に進みました。それは2年後に就職でき、高卒よりも職種が選べたからです。就職先は某中小企業で、一応「商社」でした。私の就職活動期はいわゆる「就職氷河期」の2年ほど前だったので、選べる時代だったのです。大きな会社だと多数に埋もれてしまう、という生意気な発想から、あえて職員100人代の会社へ。でも社会人になってみると自分の甘さが身に染みて感じられました。お給料もそれなりだったので、本当は家を出て自活したかったのですが、それをせずに実家にお金を入れることを選びました。それで、数年貯金を十分に貯めたら家を出る、という手はずだったのです…。

私のOL時代は本当に地味で、仕事が終わったら即帰宅して 週末もわりとマイペースにごろごろおりました。実は通勤や社会人として適応するのにかなり疲れていたのです。体調不良なども起こりましたが、感謝にも回復しました。ただ、この疲れる毎日…なんだかこれで私の一生は終わってしまうんだろうか…、とこの先の人生を考えるようになりました。ですが、働いている以上経験にしたい、と思い、真面目に一生懸命やっていたと思います。それから2年の月日が経ち、仕事も徐々に覚えたころ… 事件発生です。

 

社長の鶴の一声

1994年… 2月にはノルウェーで冬季・リレハンメルオリンピックが開かれようとしていました。もともとポップグループ、A-haが好きで、いつかきっとノルウェーの地を踏むと心に決めていた私は、このオリンピックがチャンスと前々から準備。有給休暇とお金をセーブして、直属の上司からは2週間ほどの休暇のOKが出たのです!ところが、直前になり社長から「休暇が長すぎる」とクレームが付きました。この時は組合の方にも相談したのですが、社長は直属の上司たちの首を切ると言い出し、やむを得ず彼が納得する長さの休暇に変更せざるを得ませんでした。北ノルウェーでオーロラを見る計画もキャンセルです。この時の経験が、日本の社会、労働者に対する権利のなさに嫌気がさした出来事でした。そして、泣く泣くカットされた日程だったから「今度は誰にも邪魔されずに行きたい」という強い意志が芽生えたのかも知れません。

 

初めてのノルウェー

さて、私の「初ノルウェー」体験はどうだったかというと… 暗い・寒い・コミュニケーションが取れない、とあまりポジティヴなものではなかったのです。もともとオリンピックのチケットは買わずにオリンピックに沸くノルウェーの雰囲気を楽しもうと思っていただけなので、お宿もオスロユースホステルにとって リレハンメルまでは通う手はずでした…。が、予想外に距離が長い!往復4時間の距離です。しかも今のようにスマホもなく、ネットも普及していない時代ですから、いきなり変わる列車の時間やらなにやらも訳もわからず。気温も連日マイナス15度以下…「こんな寒さ経験したことないよお」状態でした。その中で地図もなく場所を探して歩いたり…。そして愛国ムードがかなり高まっていたせいか、ノルウェー人はノルウェー人でつるんでいて、取りつく島があり話ができたのは同じ外国人。

普通なら、こんな経験の後「ノルウェー好きだけど、あまり楽しいところではないかも」と思い、また行こうとは思わないかも知れませんね。ただ、私の場合は逆に「いつかリベンジするぞー」精神がめらめらと燃え、次のフォーカスをノルウェー語を学ぶことに移しました。そうです、次に行く時にはノルウェー語でコミュニケーションしてやろうと思ったのです。

 

「リベンジ」から留学のチャンスへ

さて、日本に帰ってからは普段の毎日が戻りました。ただ、新たな目標があります。初めにしたのは、都内にあるノルウェー語を教えてくれる教室への体験入学。ところが、そこの(日本人)講師が「まったく君たちは言葉を習う動機が不純なんだよね」と、言うのに憤慨してパス。他の生徒さんたちはそれぞれ、スキーのオーモット選手やスピードスケートのコス選手に憧れて、というので来ていました。わたしにしたら、動機なんてなんだっていいじゃん、余計なお世話だと思ったわけです。ここを諦め、次にしたのが、ノルウェー大使館へ電話。ノルウェー語の先生を紹介してくれませんかといきなり聞いたのですが、親切に一人紹介してもらえました。日本に留学中のノルウェー人でバイトでノルウェー語を教えていた、HJさん。この先生が私にとって最初に知り合ったノルウェー人となりました。

週一回の個人レッスンも数か月経って、1994年の年末。先生が「マイ・ユニさんは来年なにしたいですか?」と聞いてきました。私は半分ちょっと希望的観測で、「いやあ、来年こそは会社を辞めてノルウェーに留学したいです。」すると、HJ先生、「そうなの、それじゃー、資料請求してみよっか!」と、むちゃくちゃ乗り気になり、地方短大で学生ビザが取れるノルウェー語のコース *1 2校の申請を手伝ってくれました。この2校ともTOEFLなどの書類は必要なく、なんと英語の作文とこれまで行った高校以上の学校の卒業・成績証明のみで審査され、両方から受け入れの通知が届きました。

そして、学生ビザもすぐに申請。このころはFAXでやり取りしてましたね。懐かしい!ノルウェー外国人管理局、UDIからも1年の学生ヴィザをもらえたのが1995年春ころ。会社に早速辞表を出し、同僚や先輩に見送ってもらい 8月にはノルウェーに向け出発!!

 

 

このころの事を振り返ると、まあインターネットがない時代によくやっていた、と思います。何かを調べるっていっても、例えば「スカンジナビア政府観光局」のようなところから資料請求を郵送で、とか FAXで、とか…。本当に今は便利な時代になりましたね。でも、情報がありすぎて逆に読み取るのも難しいかもしれません。

 

さて、この続きは次の回「その1.貧乏留学生時代」で綴りたいと思います。ここまでお読みいただき、ありがとうございました! 皆さん、引き続きご自愛ください。

 

 

*1:今このコースは、純語学コースというカテゴリーになり、ビザを取れる対象ではなくなったそうです。残念!

コロナ禍のコミュニケーション

お久しぶりです。皆様お元気ですか?

コロナ禍のノルウェーでは、高校卒業生たち「ルス」の大音量パーティーが毎晩のように続いております。(5月24日のブログ参照ください)今日はというと、そこではなく、前々から気になっていたコロナ禍の夫婦関係や家族関係について ちょっと触れてみたいと思っています。

 

コロナ禍でDVや児童虐待が増えるというのは世界共通かもしれない

日本のTVで見た、フランスのDV予防*1のCM。とてもリアルな感じでインパクトが強かったのを覚えています。こちら、ノルウェーでもコロナ禍でのDVや児童虐待の増加ということが言われました。私の本業でもよく児童保護事務所からの依頼でクライアントさんを引き受けるのですが、ある担当者などは「コロナで件数が増えた」と語っていて 忙しそうにしていました。

家族がステイホームで一緒に居る時間が長くなり、また経済的な問題などで精神的にも余裕がなくなったりすると家族とケンカしてしまったり、またそのぴりぴりした家庭の雰囲気から移行できなかったりするのも とてもうなずけます。ただ、いつも仲良くしている夫婦や家族がいきなりそういった状況下で暴力的になるのは ちょっと考えにくかな、と思います。心理臨床士やその道の専門家の記事もいろいろ読んでみましたが、やはり今問題が起きるとしたら、それはもともとあった問題が表面化しているという意見でした。

そうなると、普段がどうなのか、一体どうしたら普段から夫婦や家族関係の問題を防げるのか、というクエスチョンに行きつきます。

 

コミュニケーションの形

一般的には、やっぱり「普段から良いコミュニケーションを持つ」というのが一番大切だと言われているかもしれません。ただ、何を持って良いコミュニケーションなのか、というのは その人その人(カップル・家族)によって違ってくる、いろいろな形があっても不思議ではないと思います。

知り合いの日本人&ノルウェーカップルで3人のお子さんがいらした家庭では、毎日曜日の夜に家族会議を開いていました。子供たちの好きなお菓子を食べながら、この週の出来事を振り返ったり、新しい週の予定を伝えあったり、など。その時に、たしかこの週に起こった兄弟げんかなどについても語り合っていた気がします。

数年前に、ノルウェーのModum Bad*2でPREP*3インストラクター養成コースを受けたことがあります。PREPではどうやってカップルの二人がお互いの話をよく聞き、理解するかという実践的な手法を取り入れていて、わかりやすく面白い、と思いました。それが、「リスニングとスピーキングのテクニック」です。

 

リスニングとスピーキングのテクニック

PREPコースではこのテクニックを実際に習って体験することができます。これは、ある一定の時間を決めて、その中でルールに従ってカップルの二人が交互に話し手と聞き手になるというものです。話し手になる人には「スピーカーカード」(または、ペンマイクでもなんでもいいのです。)が与えられ、ルールに従って自分の伝えたいことを話し終えると聞き手だったパートナーにカードを渡します。

カップルの二人が同じくらい話し上手で 同じくらいの量や割合で相手に話を聞いてもらっている…と、日々思えるなら もしかしてこのテクニックは必要ないかもしれません。ただ、家庭でも、職場・学校でも、話をしていつも聞いてもらえる人と、そうではなくてなかなか聞いてもらえない人が居るのかな、と思います。(そして、同じ人でも状況によって変わったり…。)私も、うちでは主人に比べると話す方ですが、職場ではある2,3人の人たちが中心になって話しているので、どちらかというと静かに聞いている方です。聞いてもらえる人というのは、話し方が良く 人を引き付けるというのもありますが、いつもそうではなく、わりと人が話していても強引に割り込みのできる人・または話が途切れない人も会話を牛耳る傾向があります。それは、おそらく皆さんも気が付かれたことがあるかと思います。私たちもこのテクニックを練習してみて、時間をかけて相手が言わんとしていることを丁寧に理解しようとする姿勢というのも 足りなかったと初めて感じ、いい勉強になりました。

 

メタ・コミュニケーション

また、家族療法を学ぶ時に必ず出てくる 「メタ・コミュニケーション」という概念も普段の生活で役立つときがあります。メタ・コミュニケーションとは、コミュニケーションについてのコミュニケーションなのですが、実際はコミュニケーションしている自分や相手から一歩距離を置いて どんなコミュニケーションになっているかを観察することから始まります。例えば、うちの主人は「マイ・ユニは僕の話を聞いていない」と言うことがあって、なんだろうと考えたところ、彼が私の発言を注意深く聞いてくれることに対して、私は「ながら聞き」が多かったことが判明しました。全く悪気はなかったのですが、おそらくいろいろ家事をしながらやニュースを聞きながら、だったのでしょう。それ以降、どうしても食事の用意をしなければならない、とか、何か家事をしながら話すときは 「今、ちゃんと聞いてるからね」という意思表示も心がけています。それからたまに「話聞いてもらってると感じてる?」と、確認も入れています。

 

今日のまとめ

こうしてみると、いかにパートナーや家族に「聞いてもらっている・理解してもらっている」という感覚を持ってもらうか、がその相手にとって安心できる・信頼できる材料になるかがわかります。もちろん、片一方だけでなく、自分だってそう感じたいですよね。でも、悲しいかな…大概は相手は変ってくれなくて、まずは自分が変わってみることが前提です。

安心感や信頼がある関係って、ひとつひとつの行いや言動が積み重なってできるものですが、その積み重ねがコロナ禍を耐え抜く 夫婦・家族関係なのかな、と今日のまとめとして思える次第です…。そうはいっても、なかなか一人一人が辛い時に大変でもありますが。みなさんはどうお感じになっているでしょうか?

*1:DVにあったり、目撃したらここでヘルプがうけられます、という内容

*2:ノルウェーで有名な精神科の病院。家族療法もおこなっています。

*3:プレップ、The Prevention and Relationship Enhancement Programの略で、カップルのより良いコミュニケーションのためのコース。アメリカのデンバー大学で開発されました。

コロナの一つの副産物 「ルス」の期限なし横行

こんにちは。日本もいよいよ全国的に緊急事態宣言の解除となりますね。私もほっとしています。こちらは他のヨーロッパ諸国のようなマスクの義務付け*1 はないものの、公共交通機関(特に首都圏)の乗客数制限などはありますし、引き続きテレワークが奨励されています。

さて、他のノルウェー在住のブロガーさんたちが17日にあった憲法記念日、「セッテネマイ」(ノルウェー語で5月17日の意味。きわめてシンプルな名前です。)をカバーされていることもあり、私はノータッチでしたが 実は17日から18日にかけ、あっと驚く出来事が起こりました。それは… 高校3年生たちの集団、「ルス」の夜中3時の横行。まずはジャーナリストの鐙さんの記事を張り付けてみます。「ルスとはなんぞや?」と思われるかたは、どうぞ。

news.yahoo.co.jp

 

バス・ルス…バスを所有するルスたち*2

もうかれこれノルウェーに25年近く居る私ですが、たしかにルスは昔からあります。(うちの50代の主人が若い時もありました。)ただ、昔はこんなに高校生の子たちのメンタリティーは幼稚で自己中心ではなかったし、度を超し(過ぎ)た騒ぎかたや飲酒も主流ではなかった気がします。ルスにも地方の差があって、最近10年くらいの傾向は金持ちの親が多くいる地域(例えばオスロ近郊やその他大都市近郊)の子たちは自分たちの仲良しグループ(など)で中古のバスを一台買って、そのバスの内装や外装をリフォームし、しかもバス免がないので わざわざうんちゃんを雇って、よなよなバスを走らせて その中で飲んだくれるという行動が「普通」となっています。運転手もブラックで雇われることも多いありさまです。そしてそのお金はどこから来るかというと、親たちがスポンサーになるケースもあれば、これまで貯めた貯金(特に日本の成人式のような、堅信礼が14歳くらいであるのでそのお祝い金)をはたいたり、バイトのお金をつぎ込んだり…などなど。

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2019年、Nesodden (ネーソーデン)の憲法記念日より

 

バス・ルスがなんてったって、最悪すぎる…

うちはオスロから南に20キロの、とある遊園地の横の住宅街にあるのですが、引っ越してから愕然としたのが、遊園地の前のパーキングやセルフの給油ポンプあたりが 実はバス・ルスの定例のたまり場となっていたことです。オフィシャルなルスの活動期間は5月1日からセッテネマイの5月17日まで。ところが、4月中に早々と「繰り出す」ルスが多いのです。

まず、何て言ってもその大音量でしょうか。上の写真にもありますが、多くのバスは大型でしかも自家発電機や大音量スピーカーなどを後ろに取り付けています。その音量は数十メートル離れていても かなりうるさいです。その大音量で大体出没するのが午前3時前でしょうか。

バス・ルスの集合場所となっている遊園地前の場所ですが、おそらく数十台のバスが入るくらいの大きさがあります。道路をはさんで遊園地専用パーキング(今は公共交通機関のお客さんも利用できる無料パーキング)はバーで遮断されているものの、これまで2,3回はそのバーが倒され バスが入ったとみられる形跡がありました。数年前にはこの大音量とともに、うちの窓・壁が揺れるという事態も経験しましたが、その時は本当に数十台のバスと数百人のルスがここに集合していたのです。そして、どうやってバス・ルスが出没したかわかるかというと、なんと朝すごいゴミが散らかっているのです。ビールの缶やらコンドームやら…。(ゴミ拾いをするスポーツイベントの日本人観客たちの爪の垢を飲ませてやりたいですよー。)

こういった、昔からのバス・ルスの集合場所はノルウェー各地にあり、そこでは毎年4-6週間と言った期間、近くの住人は寝不足や騒音に悩まされるという悪夢の春を過ごさなければなりません。というのも、警察に通報してもその時の状況で 他の事件を優先にされたり(なんて言っても警察官も不足しているので)、よくうちの主人が嘆くのが通報を受け取った警察官の「親ルス的」な態度。まるで、「みんな一度はルスやってるんだから、まあこのくらい見逃してくださいよ」的なノリです。夜中に起こされて機嫌が悪いところに、この警察の態度。本当に「ふざけんじゃねえよ」と言いたくなります。

 

ルスを奨励しない人たちもいる

多くの卒業を控えた高校3年生がルスとなるわけですが、実はルスにならない子たちや、ルスになってもバス・ルスとは全く違う健全なルスも居ます。うちの主人の弟の子たちもバスには興味をもたず、いたって静かで健康的なルスでした。というのも、姪っ子・甥っ子たちは将来の目標がはっきりしていて、どんちゃん騒ぎする暇があったらその次に控える進学のためせっせと試験勉強をしていたのです。ちなみに、こちらの大学はほとんどが公営で、そのための入試はなく、高校の時の成績で入学が審査されるので 最後の試験が自分のその後の将来を左右すると言っても過言ではありません。それでも、この地域では やはり大概は「どんちゃん」のルスになってしまう気がします。それは、アルコールに対する社会の風潮など、様々なことが要因ですし、きっと、友達や仲間から外れたくない、というグループ意識からなのでしょうね。

ルス期間で何か問題が起こると、やはり世論もゆらぎます。バス・ルスの場合は中学生くらいの子たちもバスで一緒に夜通し飲んだり、泥酔状態下のレイプもあります。こちらの子たちは性交デビューも一般的に早いのですが、14,5歳の子たちを高校生のお兄さんやお姉さんたちとパーティに行かせる親たちもやはり問題視されます。 

 

コロナ禍のルスは期限がない?

さて、毎年この時期はなんとかしてバス・ルスの横行を乗り切っている私ですが、いつもは憲法記念日がラストということで何とか先が見え、頑張れています。ところが今年はいつもと違い明確な最終日が定められていないのがかなり問題です。ここまではコロナ対策でルス(特にバス)はいわゆる三密となるため、「禁止」となっており、公には6月15日からの解禁ということですが、禁止もなにもそんなことは お構いなしの連中なので、今からもしかして6月いっぱい…いや、もしかして 夏の間ずっと?と、不安が頭をよぎります。もうこの時期、学校も授業も何もないのが普通なので、ルスたちもますます暇を持て余してるのかもしれません。

たしかに、「親ルス」派が多い中ではありますが、警察に通報したり、SNSで発信したりすることで もしかして 特にバス・ルスのように迷惑度や問題度が高いルスの形体に対して 徐々に社会の風潮に変化が出てきているかもしれません。「変な外人」と思われても、悪いことは悪い、ですから あきらめずに頑張ります。

今年については、もうコロナのせいでいつもと違う夏になるのは決定ですが…。

皆さんも引き続きご自愛ください!

*1:飛行機を乗る際を除き

*2:ノルウェー語でこの表現はないのですが、バスを使わないルスと区別するため、あえてこのような造語で表現しています。

こどもたちが優先… コロナ出口対策 in ノルウェー

こんばんは。久しぶりのブログです。お元気ですか?

他のヨーロッパの国同様、ノルウェーでは4月20日から徐々に幼稚園や小学校低学年の開校、また27日からはずっと閉まっていた美容院(床屋含む)や理学療法士整骨院なども開かれてきました。

今日、新しい政府会見で 来週11日より小・中・高の開校が決まりました。政府では出口政策の一番の優先は「こどもと青少年たち」。経済はその次と言っています。もちろん、こちらは普段から休職・一時解雇、または解雇された方々の援助の制度が整っているため、コロナ危機で慌てふためくことはなかったのですが、あまりにも援助申請が多いためにそれをさばききれずに援助がまだもらえていない方がたくさん居ます。

ということで、今回のトピックは今日公示されたこれからの政策を中心に、ノルウェーでのコロナ出口対策について綴ってみたいと思います。

 

イースター(復活祭)直前の実効再生産数は0.7

こちらではイースターは復活祭の前の日曜から始まるのですが、実際に祝日になるのは受難週の木曜日から。政府はその直前に会見でこの指数を発表し、復活祭明け1週間後の4月20日、月曜日から幼稚園などを開くことを発表しました。

この時のうちの主人や私の反応は「早すぎるんじゃないか」でした。ノルウェーでは新規感染者数の他に、入院者数(普通病棟入院者とICUを分けて)と死者数が毎日公表されていますが、思いのほか私たちの心配とは裏腹にその後もどんどん数は下がっていきました。

私の職場でも3月17日よりテレワークとなっていましたが、イースター後からは個人の希望をもとに半数くらいの職員が交代でオフィスに出勤することが許されています。仕事の内容がクライアントさんの家庭訪問を中心とした生活や心のケアですので、書類業務はそれほどないため職場PCはごく数人しか支給されず。テレワークの機材はスマホ一つだったので、私も週2・3日はオフィスで仕事をしています。現在の時点ではまだ通常通りの家庭訪問はできませんが、クライアントさんと外で会って一緒に散歩したり、または特別な場合の家庭訪問は可能になっています。

 

6月15日までこれまでクローズされたすべての場所を開く予定に

この復活祭前の会見後もちょくちょく会見があり、そのつど新しいミニコロナ対策が公示されてきました。例えば、先週はいわゆるソーシャルディスタンス2mから1mに改正となり、公の集まりも各条件付きで50人まで可能となっています。

いつも会見で強調されているのが、「こどもたちが優先」という政府の説明。今日の公示でもありましたが、来週から小・中・高がオープンに。大学やその他(大人のための)学校などは自宅での自習やオンライン授業が難しくないことから、徐々に開校ということでした。(余談ですが…ノルウェーの児童福祉についてもブログでトライしたいと思っています…。)

そして今日から改正なのは、(家族以外の)何人まで一度に同じ場所に集まってもいいかという人数。これまでの5人から一気に20人となりましたが、これは個人的な家族・友人などの集まりで、ソーシャルディスタンス 1mを取ることが条件です。

野外でのスポーツの練習(子供たちのサッカー教室の部類)なども20人までのグループで許可となりました。

ノルウェーでのコロナ出口対策で注目されていることの一つが ノルウェー国を挙げての毎年の行事、憲法記念日の「セッテネ・マイ」です。毎年各地で子供たちを中心にパレードなどが企画されますが、今年はパレードは中止となり、各自小規模の個人的なグループでお祝いすることが許されます。

 

さて、気になる経済活動は…ですが。これまで閉店を余儀なくされていたカフェ(食事を提供する店は除く)などは6月1日より営業再開。これも1mの条件付きです。また、遊園地や動物園もこの日から営業再開が許されます。

3月12日より営業停止していたトレーニングセンターやプールなどはおそらく6月15日より再開となるようです。またこの日より200人までの催し物も許可になります。

 

一方、これまでとほぼ同じ対策なのが、実はテレワークです。数日前に公共の交通機関で人数制限が出されるという発表があったのですが、今日の時点では特に人数をチェックされている気配はなかったのです。なんでも定員の50%ほどに利用者を制限するとのこと。これに伴って、やはりテレワークの要請は継続されるようです。

あと、もう一つは国外への旅行や 外国人(観光客など)の入国です。これについては、首相いわく他国との協調・協力があるので、あえていつ頃というのは発表しませんでした。でも、少し前*1から「今年の夏休みは国内で」と言われているので、もしかすると国境が開かれるにはもう少し時間を要するかもしれません…。

 

私の職場でも、もしかすると来週から新しいお達しが出てくるかもしれません。3月から本当に本来の仕事があまりできず、ちょっと悶々としていましたが 少しずつ トンネルの出口が見えてきている…という感じです。日本も緊急事態宣言の5月いっぱいまでの延長でいろいろな物議がありますが、少しずつでも感染者が減っていき みなさんのトンネルの出口が見えてくることを願っています。

 

 

*1:通常5月1日までに各職場で夏休みの希望を取り、夏休みのプランを立てます。